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源頼朝と関東武士、本来の主従は逆?

なぜ関東の豪族たちは頼朝を助けて鎌倉幕府樹立の手助けをしたのか?

平家の棟梁・平清盛には自分で一族の命運を切り開いたというカリスマ性を感じるのですが、
源頼朝に関してはさほどのカリスマ性もリーダーシップも感じられない。

大河ドラマ「鎌倉殿…」を観ていても、正直な感想として、
「豪族たちが協力し合って頼朝を暗殺してしまえばいいのに!」
と、しばしば思ってしまう自分がいます。

本来の主従関係はむしろ逆で、
関東豪族たちは、頼朝の持つ「清和源氏直流」の血筋を利用し、
豪族たちが自分たちの利権を求めるために、頼朝は必要なコマだったに過ぎないのではないのか?

頼朝は威張っていますが、当時の背景から考えると、
源頼朝は主役ではなく、実は脇役。

家臣としての立場で描かれる関東豪族たちから見てみると、また違う歴史が見えてきます。


以下、妄想話は続きますが、今年の大河ドラマを観ていただいていると想定して、史実の詳細は割愛しながら続けさせていただきます。



豪族だって元は百姓

百姓の元々の意味は、

百姓は「ひゃくせい」とも読み、姓を「しょう」と読むのは呉音。
「百」は「たくさん」、「姓」は豪族がうじ)の下につけた称号「かばね」のことで、古代において百姓は「もろもろの姓を有する公民」の意味であった。

語源由来辞典

その各豪族たちは、一族のために土地を開拓して農地を広げてきました。

関東地方は利根川や多摩川、相模川などの大きな河川の恵みにより、平野や湿地帯が作られ、次々と新しい田畑に変えられたのです。

しかし、それぞれの土地の面積や生産高などで立場の強弱はあり、豪族同士の領地争いや、中央からきた国司などから領地を脅かされていました。

領地を守る為には、自分たち家族だけではなく親戚一同が結束して一族となり、武装して戦う必要ができて武士というものが誕生したのです。

武士というものの始まりは、自分たちの食い扶持を確保するために土地を守るという、いたって原始的でシンプルな理由が発端でした。

さらに守りを固めるため、違う武士団同士が結束するようになると、公平を期すために、自分たちよりも身分の高い人物をリーダーを据える必要がありました。

それらが源氏と平氏だったのです



「持てる者」と「持たざる者」


先祖から引き継いだ領地の優劣は千差万別でした。
その位置や土壌、地形により大きく違い、皆より良い条件の領地を巡って争うことになります。

出典:日本の歴史アップデート

例えば、國村 隼くにむらじゅんさんが演じていた大庭景親おおばかげちかは関東一有力な豪族でした。

彼が本拠地としていた相模国高座郡こうざぐんには、相模国最大の伊勢神宮の荘園である大庭御厨みくりやがあり、複数の川による広い平野が作り出され、農業に適し、海にも面して漁場としても優れた立地で、相模ではもっとも豊かな土地でした。

それら山海の豊かな恵みを伊勢神宮に神様への供物として納め、領地を寄進する事で、年貢を支払っていました。

大庭氏の領地は、本来なら国に納税するところ、寄進先に税を納めた寄進地系荘園というもので、有力な寺社に護られた不輸・不入の権という、国から干渉されない特権がありました。

大庭景親を大将とした反頼朝軍の豪族たちは、ほとんどが恵み豊かな「相模平野」という好立地に領地を持つ武士団であり、いまさら源氏の力など借りずとも、現状維持で十分に豊かな暮らしが確保できたのです。

一方、頼朝軍の主力はそれらの周りの丘陵地域が領地の武士団です。
源氏直流の頼朝を担いで、豊かな領地を得たいという切実な願望がありました。

「頼朝」に味方するかしないかは、自分たちの領地にどれだけの可能性があるかないかというもので、元々の領地に十分満足していれば、平氏の世を推奨するのは当たり前でした。

まさしくこの時の関東武士たちは幕府樹立のためではなく、
本意は「持てる者」と「持たざる者」との戦いだったのです。



本当の武士とは

大庭景親おおばかげちか

結局、相模一の大豪族だった大庭景親は富士川の戦いで惨敗し、梟首きょうしゅされます。

「鎌倉殿…」では斬首されるシーンで、対峙した佐藤浩市さん演ずる上総広常かずさひろつねに言ったセリフは忘れられません。

「あの時、頼朝を殺しておけばとお前もそう思う時が来るかもしれん、上総介。せいぜい気を付けることだ」

Yahooニュース

結局、景親の予言通り、上総広常かずさひろつねも粛清されることになり、彼は死の間際に、この時の言葉が過ったはずです。


大庭氏は、元々は源氏の味方だったにもかかわらず、平清盛はそれを赦免してくれた上、重用されたことに恩義を感じ、最期まで平家を裏切る事はありませんでした


伊東祐親いとうすけちか

なんといっても彼は頼朝挙兵に関係した有力豪族すべてに結びつくキーマンでした。
中村氏や三浦氏、北条氏とも親戚関係にありましたから。

平清盛から絶大な信頼を得て、流罪人の頼朝を託されたという事に誇りを持ち続け、こちらも最期まで平氏を裏切る事はありませんでした。

浅野和之さんが演じられていた「鎌倉殿…」では、頼朝の指示で暗殺されたことになっていましたが、史実では一応、赦免されたものの自分の意志で自刃して果てたとあります。

もしこちらが真実ならば、祐親はなんと世渡り下手なのでしょう。

自分を信頼してくれた平氏に対して忠誠を尽くし、自分の娘・八重と頼朝と間に生まれた孫を暗殺するという徹底ぶりは、到底、現代人には理解はできません。


当時の武士は「様子を見てから強い方の味方をする」のが当たり前だった中、大庭も伊東も恩義を忘れることなく、忠義を貫いた真の武士であった事が伺えます。



源氏の嫡流なんてどうでもいい

御恩と奉公

豪族たちが戦う理由は、自分たちの領土のためだと知る頼朝は、
領地の保障を約束し、武功をを挙げた者にはさらに土地を与えたりしました。

これを本領安堵ほんりょうあんど」と「新恩給与しんおんきゅうよと言います。

要するに豪族たちは頼朝から「御恩」という褒美が欲しくて、「奉公」して武功を挙げる努力をしました。

この関係のおかげで頼朝は「鎌倉殿」と敬称され、
地元の豪族たちは「御家人」と呼ばれるようになります。

それまで豪族間で領地争いの小競り合いを繰り返し、不安定だった生活は「鎌倉殿」の「御家人」になる事で安定し、さらに発展していきました。

御家人たちには、源氏だとか平氏だとかはどうでもよく、常に自分たちの領地にしか興味はなかったのです。

自分たちより血筋の確かな身分の者を立てる事で、豪族間の内輪もめを避け、それでいてより裕福な生活だけを望んでいたのです。


鎌倉幕府は源頼朝が創立したとありますが、実際には相模の武士団が源氏の嫡流である頼朝を利用して創らせたという見方もできます。

それを証拠に、源氏嫡流による鎌倉幕府はたったの3代で途絶え、源氏がいなくとも、回りの御家人を滅ぼし、執権として君臨した北条氏がその後の幕府を運営してゆくのです。

800年前に相模の地で繰り広げられた熾烈な出来事は、武士の時代を決定付けた歴史の幕開けだったのです。


彼らの立場関係を基本に置いて、今後の「鎌倉どの…」を鑑賞したら、見方はまた変わってくるはずです。




【参考文献】
日本の歴史アップデート
幕府を作った相模の武士たち



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