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久しぶりに山本周五郎を読む

泥棒と若殿

くなんくなんさんの記事を読んで、久しぶりに山本周五郎を思い出しました。

大衆歴史小説という感じでしょうか?
江戸庶民の目線から垣間見た世界観は、当時の時代背景を上手く写し、そこに生きた人々の感覚は現代の私たちとも通じるところがあります。

この小説はタイトルからわかる通り 若殿と泥棒という身分も立場もまったく交わる事のない人間同士の心が通い合う様子を、上手く描写している作品です。

実際には、万に一つもあり得ない状況設定に、なんだかちょっとした憧憬も感じ、この二人の組み合わせをよくぞ思いついてくれたと思わずにはいられません。

こういう感情をセリフや動作の描写から表現するところは、本当に上手いと感じてしまいました。

私が語るのはここまでです。
詳細はくなんくなんさんの記事をお読みくださいね。

短い作品なので作品集の中に収められていますが、青空文庫でもお読みいただけます。


さぶ

さて、「泥棒と若殿」が短編だったので、もう一冊物色して読んでみました。
山本周五郎作品は、随分昔に何冊か読んだ記憶はあるのですが、どれだったかまったく記憶になく、これはたぶん読んでないと思って選んだのが「さぶ」でした。

基本的にネタバレはしませんし、ストーリーの詳細にもなるべく触れません。

今回気になった「人足寄場」について書かせていただきます。
この小説を読む際の予備知識として読んでいただけたら嬉しいです。



人足寄場にんそくよせば」の認識が変わった

加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば[1])とは、江戸幕府の設置した軽罪人・虞犯者の自立支援施設である。一般には人足寄場(にんそくよせば)の略称で知られている。

Wikipedia

江戸時代の人足寄場と言えば、
罪人の収容施設で、重労働でこき使われ、粗末な食事しか与えられず、家畜のように働かされることが刑罰だと誤解していました。

懲らしめるために労働を課すのではなく、
社会復帰させるための労働をするところでした。

彼らが刑を終えて生きるゆくためのサポート施設だったのです。

「更生」の思いが現れた重要な3つの処遇法です。私はこれらを、労働に対して賃金を支払う(1)「作業有償制」、その賃金を天引きして積み立てる(2)「強制積立の制」、積み立てた貯金を就職のための準備金にする(3)「元手の制」と呼んでいます。更生を見据えていたからこそ採用された処遇法だと言えましょう。

國學院大學

労働した分の賃金は支払われ、そこから天引きでして貯蓄し、社会復帰する時の準備金として本人の将来のために管理されていたのです。

この話の中に登場する罪人の中には、どうせ世の中に出ても差別されるのが目に見えているので、一生涯、寄場で生きていきたいと望む人がいるのには驚きました。

確かに、寄場を出れば、誰も保護して管理してくれないし、自分で職を見つけて食べて行かなくてはなりせん。
働く気はあっても、差別されて職にはなかなか就けないのが現実だったのです。

刑期を終えても出ていこうとしない人もいて当然でしょう。
かといって、強制的に追い出されることもありません。

寄場という世界は、罪人たちのための理想の世界だったのです。

ずっと以前にテレビの特番で見た事があって、その時も「へぇー」と感心した覚えはありますが、この小説を読んで詳細を知る事で、さらに認識が深まりました。


人間性を育てる教育「心学」

寄場では、月に3日の休日もありました。

よく映画やドラマで見る江戸時代の丁稚奉公は、休みなしだったか、休めてもお盆とお正月ぐらいだったという印象がありましたから、意外でした。

寄場は商家へ奉公するより、ずっと優遇された条件だったようです。

その休日を利用して取り組まれたのが人間性改善のための教育でした。

いくら職業サポートが万全でも。一般社会に戻って再び罪を犯しては何もなりません。
そうならない為に、人としての心がけを学ぶ「心学」の講義が教授を招いて実施されていました。

さらに、心のより所である祈りの対象として、お稲荷様の社まで作っていたのです。


至れり尽くせりの施設ですね。


明治になると、寄場は廃止となりましたが、その基本的な制度は犯罪者収容のための刑務所となりました。

人足寄場は、江戸時代当時から明治にかけては、隅田川の河口付近、佃2丁目の石川島にありましたが、巣鴨へと移転し、さらに現在の府中刑務所へと再移転しました。

・敷地面積 262,055m2(庁舎 226,239m2 宿舎 35,816m2)
・周囲を高さ5.5メートル、総延長 1.8キロメートルの塀に囲まれている。

Wikipedia


松平定信の謙虚な姿勢

江戸時代の人足寄場が現在の刑務所の原型となったのを見ると、当時では画期的な政策でした。

発案は池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』のモデルとなった主人公・長谷川平蔵で、老中・松平定信に提案して実現したと言われています。

実はこれより35年前の1755年(宝暦5年)に徒刑とけいという制度が熊本藩で実施されていました。

人足寄場の基本処遇法3つ、賃金→貯蓄→準備金がすでに確立された施設が存在しており、これが全国で初めてのものだったようです。

老中・松平定信はわざわざ、当時の熊本藩主・細川重賢しげかた
熱心に教えを乞うたと言います。

熊本藩と言えば、関ケ原で敗戦した藩ですので、「外様大名」です。
天下の徳川幕府の老中である信定が外様藩主である細川重賢しげかたに対して、プライドを捨てた謙虚な姿勢があったからこそ、現在の刑務所の原型がができたのです。


名君と誉れ高い8代・徳川吉宗はこの定信の祖父にあたります。
吉宗の没後に生まれている定信ですが、2人には「庶民に寄り添う」共通した理念を持っていたようで、それぞれ時代を超えて理想を実現しています。

士農工商の身分の垣根を取り、「共に楽しむ場」を作りました。

吉宗は「飛鳥山」
定信は茶室「共楽亭」

定信は吉宗の飛鳥山の主旨に大いに感銘を受け、その精神を受け継いだのです。
その精神とは、
人はそれぞれ身分の差はあれども、認めるべく「人権」はある

というもので、その理念は現代の更生施設としての刑務所の基礎となったもでした。


ドラマ版もあるのですね。
機会があればみてみたいものです。


【参考文献】
國學院大學メディア    ・Wikipedia




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