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「仲間」と「連れ」とは違う
私の大切なフォロワーさんの1人であるスピカさんの記事から子育て中の人間関係について思い出したことがあります。
スピカさんは、日々の生活の中で鋭い目線で感じたエッセイを書かれていて、先日の記事も、彼女の豊かな感受性が感じられるものでした。
学校、会社、ママ友、どの世界においても「出来上がったグループ」は存在していて、その中に入るには勇気が要ります。
しかし、中にはさりげなく気配りできる人もいて、ごく自然に誘ってくれる人もいるかと思えば、まったく周りを気にすることなく自分たちの世界しか眼中にない人たちもいます。
また、会話中に急に話題を変えて、主導権を握ったり、わざと一部の人にしかわからない話をする人もいたりします。
そんな風に、自分だけ疎外感を感じることは、誰しも経験があるのではないでしょうか?
人それぞれ性格も感覚も違う社会を生きる上で、自分にとって心地よい場所を見つけるのは、もっとも大変な事かもしれません。
ママ友からは逃げられない
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学生時代や職場の同僚の場合、気の進まない人とはプライベートでは完全に切り離す事はできます。
しかし、ママ友だけはそうはいきません。
それまでは自分本位の判断だけで済んでいたものが、ママ友だけは最終的には我が子が絡むので、どんなに避けたくても、同じ地域内の学校に通っている以上、何かしらの接点はできてしまいます。
同じ地区の同じ自治会であったり、同じクラスであったりするので、上手く付き合う必要が出てくるのです。
🟠ダベるのは話題にもよる
ダべるとは駄弁の動詞形で、無駄話をしているという意味です。
ダべるのは、時には盛り上がって楽しい時間にもなりますが、それも時と場合によるようです。
例えば、長男が幼稚園に通うのに、私は次男がまだ生後半年ほどだったので、マンション下に発着の幼稚園バスを利用していました。
子どもたちを送り出した後、数名のお母さんたちが輪になって雑談を始めるのが定例となっていました。
私も一度その中に入ってしまった事があったのですが、話題はといえば、だいたいが「人の悪口」なのです。
正直、辟易しました。
同意を求められても迂闊には答えることもできないし、
ただエンドレスに答えの無い話題なのです。
疲れ始めた頃、ベビーカーに乗せていた次男がむずかってくれたので、逃げることができましたが、それ以後、なるべく参加しないようにその場をサッと離れていました。
ある日、バスの時間から2時間ぐらい後に、たまたま同じ場所を通りがかったら、まだ数人がたむろして話し込んでいたのには、心の底から驚きました。
アンタらヒマなん??
よくも2時間以上も立ったまま、どうでもよい話が出来るものだとある意味感心してしまったのです。
(彼女たちにとっては大事な話なのかもしれませんが…)
🟠ある程度の意思表示は必要
何も無駄話を完全否定するわけではありません。
そこには程度があると思うのです。
特に知らない人の悪口は、まだ会った事もない人間が聞くと、先入観でその人の印象が悪くなってしまいます。
(でも後日、当人とお話してみると意外と気が合ったりもしました。)
かといって、真っ向から反論しては角が立ちます。
これは逃げるが勝ちだと思って、さっとその場から離れることで、会話に参加したくないという意志表示をしてきました。
ママ友同士での飲み会もあまり気が進みません。
共有する世界が限られてしまうので、やはり会話は同じ種類のもので、前半は興味を示す事ができるのですが、だんだん後半は苦痛になってくるのです。
そこには、匙加減というものが必要で、無下に欠席するのも角が立つので、楽しめる範囲だけ楽しんで、頃合いを見て先に帰ったりすることもありました。
いつでも一緒と必要な時だけ一緒
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例えば、近所のお母さん方でこんな人たちがいました。
参観日にわざわざ近所で待ち合わせして、一緒に学校へ行く人たちがいたのです、
私が一人で自転車で学校へ向かう途中に、道端に一人で立っているので、不思議に思って訪ねると、参観へ一緒に行くために○○さんを待っていると言います。
え?学校はすぐそこやけど待ち合わせいる?!
また、PTA役員をしていて気づいたのですが、各学級から学級委員を決め、その中から学年代表2人を決めるのですが、その中には必ず決まった顔ぶれのコンビがいました。
この人たちはセットなんや…💧
正直、私から見るとご苦労様な事で、必ず誰かと示し合わせて行動するのは疲れないのかと同情したものでした。
🟠自分の意志で協力し合う
例えば私がnoteで時々紹介している「レキジョークル」のメンバ—は、元々は「ママ友」として知り合いました。
詳細はシリーズ其の一にも書かせていただいきましたが、子供とは全く関係の無いことで協力し合ってきました。
出会ったキッカケが子育てだったというだけで、行動する目的は自分の意志で選んだものなのです。
さらに、普段の各メンバーは、それぞれ自分のしたい事があれば一人でも行動できるため、私たちは四六時中一緒にいるわけではありません。
歴史名所を中心に旅行する事がテーマではありますが、全員が歴史に興味があるわけではなく、食べ歩きが趣味だったり、写真を撮るのが好きだったり、各自の「ツボ」は違っています。
しかし、企画が挙がった時点で、少しでも満足のいく楽しい旅行にするための協力は惜しみません。
グループで行動はするのですが、当日も各自がマイペースで趣味を楽しんでいます。
ただの「ママ友」と大きく違うのは、お互いに〇〇ちゃんのお母さんという見方ではなく、一人の友人として見ていて、必要なときのみ共に行動する点なのです。
おばちゃんズも、元の繋がりは「幼馴染み」なので、子供の頃や学生時代から知り尽くしたグループです。
普段の交流はほぼ無いのですが、年に数回のみ同じ目標のもと、協力し合って旅行を楽しみます。
🟠「ママ友」だけでは続かない
ほんの些細な事でも一緒にいた当時の仲良しママ友たちは、現在でもお付き合いが続いているのかどうかは知りません。
というのも彼女たちを目にしたのは、地域の学校に縁があった義務教育の間のみだったので、その後の事は知らないのです。
おそらく、子供たちの手が離れた今でも当時と同じ親密度を保っているとは思えません。
「ママ友」とはその字のごとく、母親としての立場がある間だけのお付き合いであると言えます。
裏をかえせば、自分の意志というよりは、役目の上で成り立つ関係で、人によっては「やらされ感」もあったはずです。
連むのと仲間との違いは?
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勘違いしてはいけないのは、連むだけの連れ」と「仲間」とは一見同じようでも全く違うという事です。
決してどちらが良くて、どちらが悪いというものではなく、人間関係の中で上手く使い分けすべきものかもしれません。
連むとは?
連れ立つ。一緒に行動する。
仲間とは?
一緒に物事をする間柄。また、その人。
要するに、単に行動を共にすることが連む事で、
一緒に何かの物事に取り組む人たちのことを仲間と言います。
その違いは自分の意志があって気持ちが伴っているかどうかなのです。
よく女子学生にみられる「一緒にトイレへ行く」という行為は、自分は行きたくないのに、誘われたから(仕方なしに)行くのが連む事で、そこには自分の意志はありません。
まだ世の中の事はおろか自分の事もよくわかっていない子供のうちは仕方がないのかもしれません。
私も若い頃は、数々の人間関係に悩まされてきました。
だからこそ、回りに対して優しくもなれるし、逆に厳しくなることもでき、自分の気持ちに正直になる事はとても肝心な事だと気付きました。
それと同時に、どんな環境であれ、その場その場に合った話題や、みんなが楽しめる場を目指す配慮は、人間関係において最も必要ではないかと思うのです。
私は子育ても終わった今でこそ、たとえ一人になっても毎日を楽しむ事は出来ますが、ママ友デビューの頃の迷いと葛藤があった自分に、アドバイスしたいぐらです。
~まずは基本に返って、自分の気持ちに正直になってね~
とね。
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