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大奥(PTA) 第四十話 【第九章 訪問】
【第九章 訪問】
<産後鬱>
年も明け、桃の花も咲き初める弥生(3月)となりました。
安子様は、ようやっとお首の座った宗次郎様を背におぶい、お手には何やら文字の書かれた留書き(メモ)を握り締め、寺子屋近くの御屋敷街の小路をとぼとぼと歩いていらっしゃいました。
安子様は昨年霜月(11月)の激しいお産の後、七日間眠る事も叶わず、産前は毎朝元気に鳥の声と共に起き、てきぱきと家事をこなして居ら
大奥(PTA) 第三十九話 【第八章 名前】
【第八章 名前】
<宗家>
「なに! 産まれた? 男の子とな?」
奥方様は大声を出され、用意して置いた風呂敷包みを掴まれると、小脇には押入れの奥から探し出して来られた、何やら筒のような物をお抱えになり、玄関を飛び出さんとして居られました。
「あの、ですから、奥方様、安子様は産後の御肥立ちが……」
と初島様が仰ってお止めしようとなさったものの、
「牧野家の次男が産まれたのです。駆け付けたと
大奥(PTA) 第三十八話 【第八章 名前】
【第八章 名前】
<はやめ薬>
「お前さん、このお方が破水したのはいつの時分だったかえ?」
産婆様は、お子を産んだことのある恰幅の良いご婦人にお尋ねになられました。
「確か昼八ツ(午後2時)過ぎ頃だった様な」
とそのご婦人がお答え申し上げますと、
「そうさのう、子宮口が開く前に破水をばしたなら、遅くとも十二刻(約24時間)経たぬうちにお子を産み落とさねば、雑菌が入って、母子共に危険になるで
大奥(PTA) 第三十七話 【第八章 名前】
【第八章 名前】
<産み月>
それから五日後の事に御座います。安子様の義母の奥方様の所にお仕えの初島様が、安子様の産み月が近いと言う事で、屋敷に御様子を見に訪ねて下さりました。
「さて、御産気付かれましたら、前の花子様の御出産の時に太郎君をお預かりしたのと同様、私どもで太郎君と花子様をお預かり致しますね」
と初島様が仰ると、
「誠にお手数をお掛け致します。うちの主人は育児の事はからきしなも
大奥(PTA) 第三十六話 【第八章 名前】
【第八章 名前】
<名前>
あれから時は一月ほど経ち、安子様の御出産が近づいて参りました霜月(11月)の半ばとなりました。
先月の、小火騒ぎの後に身重の安子様が常磐井醫院に運ばれました御一件から、安子様が御早産の危険を抱えながらも、一人手(ワンオペ)にて家事、子育てをこなしつつ、御出産を迎えなければならない御事情をご案じになられた常磐井様は、医療関係者として、更には安子様のご友人として、折
大奥(PTA) 第三十五話 【第七章 試練】
【第七章 試練】
赤鬼先生は険しい御表情で、診察道具棚から「とらうべ」(聴診器)を手に取られ安子様の腹部にそれを当て、胎児の心音をお確かめになられると、
「ああ、赤ん坊の心音が弱くなっている。ちくしょう、この子は九つ月だからまだ出て来てもらう訳にはいかねえ。頼む、持ち堪えてくれ」
辛そうなお声でこう呟かれ、常磐井様にこのように御指示を出されたので御座います。
「お慶、万が一と言う事も有る。この
大奥(PTA) 第三十四話 【第七章 試練】
【第七章 試練】「倒れた時分、見ていた者は居るかい?」
赤鬼先生がお尋ねになると、
「はい。私が」
と、太郎君がお答えになりました。
「倒れる時、何かに頭をぶつけたりはして居ないね?」
赤鬼先生の言葉に太郎君は、
「いいえ。その場に足から崩れるようにお倒れになりました」
とお答えになりました。
「外傷は無し、か。後はこのまま静かに寝かせて置いて様子を見るしか無さそうだな。お慶、予断は
大奥(PTA) 第三十三話 【第七章 試練】
【第七章 試練】 火を出してしまってから消えたこの瞬間まで、自責の念と不安感で押しつぶされそうになっていた太郎君は、身重のお母君がその場に倒れ込んでしまったのをご覧になり、普段はとてもしっかりとした七つの男子であるのに、この時ばかりは両目からぽろぽろと涙をお流しになり、力無くその場にへたり込んで仕舞われました。
その時に御座います。
「牧野様? 牧野安子様、お邪魔致しますよ?」
太郎君の
大奥(PTA) 第三十二話 【第六章 提灯】
【第六章 提灯】 運の悪いことに、太郎君の肘にぶつかった手燭は、石段の脇に積んで有った炭熾し用の焚き付け薪の上に勢い良く落ち、中の蝋燭が倒れました。
焚き付け用の薪は普通の薪と比べてずっと細く、この所晴天続きでしたので大変良く乾いておりました。落ちた蝋燭の炎は先ず一本の細い薪に燃え移り、橙がかった飴色の炎が縦に細く伸び、風が無いので上に真っ直ぐに細い煙を上げながら、次の薪、また次の薪へと燃え
大奥(PTA) 第三十一話 【第六章 提灯】
【第六章 提灯】
<窺書(アンケート)>
その頃、安子様と常磐井様とおりんさんは、津軽屋西の蔵での大奥(PTA)御吟味方(選出委員)のご作業を終え、新川沿いの夜道を提灯片手に家路に就いておられました。
「しかしまあ、立候補出来ない人は、必ず誰かを御推挙する事、と窺書(アンケート)に書かれて居るとは言え、皆無責任に書いて来るもんだねえ」
道すがら、おりんさんがこう愚痴り始めました。
「皆其
大奥(PTA) 第三十話 【第六章 提灯】
【第六章 提灯】<火の用心>
その時、かちん、かちんと拍子木の硬い音がして、自身番屋の番太の火の用心の声が、辺りに響き渡りました。
「御用心候え〜、お火元、御用心候え〜」
「これからの季節は空気が乾燥するからねえ。火元には十分気を付けないとね。ウチの兄貴なんざ、昨今毎晩の様に二丁目の自身番屋の火の見櫓に張り付きでさあ、中々家にも寄り付きゃしないよ」
おりんさんのその言葉に頷きながら、常
大奥(PTA) 第二十九話 【第六章 提灯】
【第六章 提灯】<影>
日が沈んだばかりの夕闇の中、提灯を片手に持った安子様は、川沿いの道をお急ぎになられます。静寂の中に虫の音だけが賑やかで、小径に芒の穂が垂れ込めて来るのを、もう片方の御手で時折掻き分けながら、背後から見守る神無月(10月)の大きな満月と、提灯が作り出したご自分の影が川原を進んで行くのが御目に入りました。
「ああ、当たり前だけれど、お腹の大きい影だわねえ」
普段から
大奥(PTA) 第二十八話 【第六章 提灯】
【第六章 提灯】
<晩酌>
「あいよ、奥さん。干し鯖、おまけして十文(約320円)。いや、今日はもう終いだから、こっちの鰯の丸干しもつけとくよ」
安子様は家の近くに棒手振り(行商人)を止めて、旬の油の乗った一夜干しの鯖を手に入れられました。
「ほんに、身が厚くて、油の乗った良い鯖だこと」
神無月(10月)の夕刻、秋の高い空には、鱗雲に茜色の夕焼けが山の端に向かい、少しずつ紫がかって行くの
大奥(PTA) 第二十七話 【第五章 目安箱】
【第五章 目安箱】
<怪我>
「お怪我は御座いませんか?」
辺りが洋墨(インキ)で真っ黒になろうとも、完成しかけた仕事が台無しになろうとも、母御らが先ず真っ先にお気に掛ける事は、お子の無事。
安子様と芳子様のお母様は、咄嗟に各々自分の娘御を抱き抱え、それ以上何も触らせまいと、小さいお体をぎゅっと抱き止めたので御座います。
「嗚呼、良かった。硝子板は落ちて居ない……」
安子様は割れ物が無
大奥(PTA) 第二十六話 【第五章 目安箱】
【第五章 目安箱】
安子様のそのお声を聞いて、紙を数えたり、お伝の方様に申し付かっていた諸々雑多な御作業を手分けしてなされていた他のお母様方が、驚いて駆け着けました。
「ああ、これではちょっと、このまま刷りに回すのは無理そうねえ」
常磐井様がその蝋原紙を手に取ると、整った美しい文字が几帳面に書かれたその下に、『御推挙奉り候』の『候』の文字の最後の払いの部分が、一寸(3cm)ほど太く斜めに流れ