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大奥(PTA) 第二十九話 【第六章 提灯】
【第六章 提灯】
<影>
日が沈んだばかりの夕闇の中、提灯を片手に持った安子様は、川沿いの道をお急ぎになられます。静寂の中に虫の音だけが賑やかで、小径に芒の穂が垂れ込めて来るのを、もう片方の御手で時折掻き分けながら、背後から見守る神無月(10月)の大きな満月と、提灯が作り出したご自分の影が川原を進んで行くのが御目に入りました。
「ああ、当たり前だけれど、お腹の大きい影だわねえ」
普段から鏡など見る余裕もなく、ただ無我夢中で家族の為に立ち働いて来た安子様は、その影の形を客観的に目にして初めて、夜分にこの様な大きなお腹を抱えた女人が一人で道を急いでいる事に、一抹の不自然さを感じたので御座います。
「まあ、考えても詮の無い事。先を急ぎましょう」
安子様は、頭の中に湧き上がった不安感を振り払うと、夜の川に映る満月の明かりを頼りに歩を進め、橋の近くまで来た時、橋の上に二つの見知った人影が有るのが目に入り、少しほっとされながら、お声をかけられました。
「常磐井様、おりんさん、今晩は」
「安子さん、暗い中良うおいでなすった。足元は大丈夫だったかい?」
おりんさんがそう仰ると、常磐井様も笑顔でこうお続けになられます。
「安子様はここに越して来てまだ日も浅く、新川の西の蔵の場所なんてお分かりにならないでしょうと思ったから、ここでこうして待ち合わせという事にしましたよ」
「お気遣い本当に有難う御座います」
安子様がお二人に丁寧に頭を下げてゆっくり上げようとした時、おりんさんが何かの皮袋を大事そうにお抱えになって居るのにお気づきになりました。
「あ、この袋は?」
と安子様がお尋ねになると、おりんさんはこうお答えになります。
「ああ、これかい? これは、先日皆で刷って配って、集まって来た窺書(アンケート)を、お伝の方様の御指示で目安箱から回収してきたのさ。大奥(PTA)最大の機密だ何だって言って、こんな丈夫で鍵の掛かった皮袋に入れるなんて、まア大袈裟なこった」
安子様はその皮袋を提灯の灯りで照らして良く見てみると、確かに艶のある黒い牛皮で出来た丈夫そうな大きな袋に、葵の御紋の付いた錠前が、しっかりと中身をお守りしているのが見て取れました。
「御開票作業は広い西の蔵でやるとして、寺子屋の門が閉まってしまう前に、こうして私たちが目安箱からこちらの袋に移しておいたのですよ」
常磐井様はこう仰いました。
三つの提灯が、三人のおなごのたわいないお喋りの声と共に、ゆっくりと進んで行きますと、漆喰の海鼠壁の蔵が立ち並ぶ倉庫街に入って参りました。
「ああ、この辺りまで来ると、ほんのり潮の香りがするねえ」
と、おりんさんが仰いました。
<仁王像>
暗闇で提灯の周り以外は良く見えないものの、言われてみれば確かに、海の匂いや、遠くから微かに潮騒の音まで聞こえる様な気も致します。と申しますのは、ここ新川は、物資を運ぶ瀬取船を、石積みの岸に着けて蔵に運び込む為の運河なので御座います。東から順に、一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋と橋が掛かっておりまして、その三ノ橋の近くに、お伝の方様の御実家が営んでいらっしゃる津軽屋の西の蔵が御座います。
白い漆喰の総塗籠の壁で作られ、屋根は黒の堅牢な瓦葺きを施されたその蔵は、まるで巨大な仁王像の様に、御三方の前に立ちはだかっておりました。
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