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大奥(PTA) 第二十八話 【第六章 提灯】
【第六章 提灯】
<晩酌>
「あいよ、奥さん。干し鯖、おまけして十文(約320円)。いや、今日はもう終いだから、こっちの鰯の丸干しもつけとくよ」
安子様は家の近くに棒手振り(行商人)を止めて、旬の油の乗った一夜干しの鯖を手に入れられました。
「ほんに、身が厚くて、油の乗った良い鯖だこと」
神無月(10月)の夕刻、秋の高い空には、鱗雲に茜色の夕焼けが山の端に向かい、少しずつ紫がかって行くのが大変美しく、安子様は花子様のお手を引きながら、少し足を止めてそれを眺めてからご自宅の屋敷へと向かわれました。
「あら、あなた。本日はお早いお帰りですね」
安子様は門に入る少し手前で、後ろから御夫君が歩いて来られたのにお気付きになられました。
「おお、安子、花子もか。本日は表(会社)が早上がりでね。おう、何か美味そうな物を持っているじゃないか」
御夫君は珍しく上機嫌で、安子様がお手に持っていらっしゃる干し鯖の袋を指差すと、この様に仰いました。
「さて、後はお酒を燗にして、この鯖を炙れば出来上がりね。里芋の醤油あんかけと、小松菜のあぶらげ和えはもう出来上がって居ますし」
割烹着姿の安子様は、手際良く夕餉の御準備をされていらっしゃいます。
「七輪の炭も良い感じに熾っておりますね。あなた、取り敢えずこの冷や(常温日本酒)と小松菜和えで一杯呑って居て下さいね」
七輪の上の油の乗った塩鯖をぱたぱたと団扇で仰ぐと、酒呑みには堪らない香ばしい煙が上がりました。安子様は縁側で団扇を叩きながら、居間で晩酌を始められたご夫君に、この様に申し上げました。
「あなた。前にもお話ししましたけれど、本日これから大奥(PTA)のお集まりが御座いまして。すみませんが、もうじき出立させて頂きますので」
「なに、今からか? もう七ツ半(午後5時)を回って居るではないか」
御夫君がそう仰ると安子様は、
「申し訳御座いません。どうしても行かねば成らぬお集まりのようでして……。あらあら、花ちゃん、どうしちゃったの。こんな所で眠っちゃいけないでしょう?」
夕餉が出来上がるのを待ち切れず、花子様は居間の畳の上に横になり、うとうとと眠り込んでしまわれました。
安子様は御円卓の御夫君に、先ず焼き立ての鯖の塩焼きを供すると、一度七輪の所に戻り、もう一枚の鯖を菜箸で綺麗に皿に盛り付けてから、座ってお食事を待っていらっしゃる太郎君の前にも置かれました。
安子様はその足で次の間に行かれると、小さな子供用の御布団をお敷きになり、居間で眠っていらっしゃる花子様を抱いてお連れになり、そっとお寝かせになりました。
その時、
「私が御御御付け(味噌汁)を持って参りましょう」
と太郎君が立ち上がると、
「あら、お手伝い有難うね。助かるわ」
と安子様がお答えになりました。
太郎君がお盆に汁物を載せて厨から戻って来た時、御円卓で晩酌をしていらした御夫君がこう仰いました。
「で、今から大奥(PTA)とやらに出掛けるとして、太郎と花子はどうするのだ」
<寝かし付け>
「そのことで御座いますけれど……」
と安子様が仰りかけますと、
「この様な夜分、提灯の灯り一つで数え三つの子供を連れ歩くのは危なかろう。花子はもうこうして眠ってしまって居るし、太郎じゃまだ護衛にも成らんだろ。儂が二人を見ておこう」
御夫君はそう仰いました。
「有難う御座います。そうして頂けると大変助かります」
安子様は頭を下げて御夫君にお礼を述べられました。
「なあに。もう飯も出来ているし、後は子供らを寝かせるだけだろう? 容易い事だ」
幼いお子を二人寝かし付けるのが、果たして容易い事なのかどうか……、安子様はこの言葉が喉元にまで出掛かりましたが、言えばややこしくなるだけの事。ここは旦那様がせっかく見て下さると仰っているのだから、気持ちよくそうして頂く事が何より先決であろう、安子様はその様に思い直されたので御座います。
安子様は、御夫君のお気が変わらないうちにと、手際良く出掛ける支度をお始めになられました。
「ええと、花子の襁褓はこちらに置いておきますね。今はちょうど襁褓と自分で厠に行くのと端境期なので、起き出して来て自分で厠に行きたがったら、連れて行ってあげて下さい」
「ああそうそう、もう次の間にお布団を敷いて置きましょうね」
安子様はばたばたと、普段も寝室として使っている次の間に行き、眠っている花子様の小さなお布団を囲む様に、御夫君の布団と太郎君の布団を引き出して来て、膨らんだ腹部を気になさりながら川の字にお敷きになられました。
安子様が慌ただしく割烹着を脱いでいらっしゃると、暮六ツ(午後6時)の鐘の音が町に鳴り渡りました。
「ああ、もう行かなければ。そうそう、提灯は納戸にあったかしら」
安子様が納戸から提灯を一つ取って来て、ぱららと広げて火を灯されますと、夕闇の薄暗い玄関が、橙色の暖かい光に満たされました。
「お母様、お母様は夕餉をお召し上がりにならないのですか?」
と太郎君が安子様にお尋ねになられますと、
「ああ、私なら大丈夫。先ほど作りながら小松菜の煮たのをつまませて頂きましたから」
お優しい太郎君は、御妊婦なのに皆の心配ばかりして、ご自分は食事も碌に摂らずに慌ただしく出掛けようとして居る御母君の御背中を見守りながら、今宵はご自分がしっかりしなくては、とお思いになられたのでした。
「それでは行ってまいりますね」
安子様が草履を履こうとしてしゃがみ込まれた時、ふと、何かを思い出されました。
「ああ、そうでした。あれを用意しておきませんとね」
そう仰って安子様は急いでお勝手に戻り、房楊枝(歯ブラシ)を三本取って居間にお持ちになり、ご夫君が晩酌をしておられる円卓の上にお置きになると、こう仰いました。
「子供達を寝かし付ける前に、必ずこの房楊枝(歯ブラシ)で歯磨きをさせてくださいね。虫歯になってしまいますからね。」
安子様がこう念押しなさると、ご夫君は聞いているのか聞いていないかの体で、軽く相槌を打たれました。
「ああ、もう急がないと、それでは行ってまいりますね」
安子様が急ぎ玄関に戻り、草履を履いて出かけようとなさるお姿を、太郎君は心配そうに見守っていらっしゃいました。
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