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大奥(PTA) 第三十六話 【第八章 名前】
【第八章 名前】
<名前>
あれから時は一月ほど経ち、安子様の御出産が近づいて参りました霜月(11月)の半ばとなりました。
先月の、小火騒ぎの後に身重の安子様が常磐井醫院に運ばれました御一件から、安子様が御早産の危険を抱えながらも、一人手(ワンオペ)にて家事、子育てをこなしつつ、御出産を迎えなければならない御事情をご案じになられた常磐井様は、医療関係者として、更には安子様のご友人として、折り入ってと御吟味方(選出委員会)取締(会長)のお伝の方様にお願いし、せめて安子様の御出産が無事終わり、生まれた赤子のお首が座る頃合いまでは、御吟味方(選出委員会)のお勤めをお休みさせて上げて下さい、その分我々も働きます故と御交渉なさって下さりました。お伝の方様も流石に鬼ならぬ人の子、人の親。ご事情をお分かり下さり、どうにかご承諾を頂く事が叶いました。
安子様は、いつお生まれになっても良い程の、大きなお腹をお抱えになっていらっしゃる故、時折、重みの掛かるお腰に自らの御手を添えながら、ご自宅の縁側にゆっくりと腰を下ろされました。今が盛りのお庭の椛の紅い葉の色が、気持ちの良い秋晴れの陽の光に透けるのを、ゆったりとしたお気持ちで眺めていらっしゃいました。
お庭では山茶花の木の艶々の葉の隙間から、紅鶸色の小さな花々が顔を出し、大変可愛らしい風情で御座います。安子様が穏やかな御表情で縁側から見守られる中、花子様は小菊摘み、太郎君は門からの飛び石を、けんけんぱで飛んで遊んでおりました。
本日は土曜で表(会社)がお休みで、ご自宅ににいらした御夫君は、居間の煙草盆から煙管を取り出し火を点けると、それを片手に縁側にお立ちになり、お庭を眺めていらっしゃいました。
「安子、体調の方はどうだ?」
この様な穏やかな休日、御夫君のいつになく優しいお声がけに嬉しくなった安子様は、少し甘えた口調で、ご自身の十月の大きなお腹を優しく摩りながら、御夫君にこの様にお話しになりました。
「はい、お陰様でこのところ体調は順調の様で、お子も毎日元気に私のお腹を蹴っておりますわ。
ねえ、ところであなた、このお子のお名前のことですけれど……」
「名前? ああ、そろそろ考えて置かないとな」
御夫君がこう仰ると、
「あのね、私、実はずっと考えて居た名前が有って……」
安子様は御夫君の顔色を伺うように、こう打ち明けられました。
<優>
「このお子の名は、男の子なら優次郎、女の子ならお優、と付けたいのですけれど」
「漢字は、どう書くのだ?」
と御夫君はお聞き返しになられました。
「優しい、と言う字を使いたいのです。こう、にんべんの」
安子様はそう仰ると、指で空に「優」の文字を書いてお示しになられました。
そうしたご両親の睦まじい御様子をご覧になった太郎君と花子様は、興味深々で縁側まで駆け寄って来て、
「なあに? 弟か妹のお名前?」
と、目を輝かせてお尋ねになりました。
「そう、お名前。私は、優しい、という漢字を使って、男の子なら優次郎、女の子ならお優、と付けたいのですけれど……」
安子様がそう仰るのを聞いた子供達は、
「いいね、それ。優、優ちゃん? 可愛いねえ」
と、きゃっきゃとはしゃいでおりました。
安子様は、肝心の家長の御意見を確かめなければと、お立ちになっている御夫君の方に目線をお向けになり、こうお訊ねになりました。
「ねえ、あなた、どうかしら? このお名前は」
「優次郎、お優ねえ……」
ご夫君は煙管を傾けて煙を燻らせながら、少し考えていらっしゃるご様子でした。
思えばこの御妊娠中、安子様には様々な出来事が御座いました。先月の小火騒ぎの一件で、皆様に色々とお助け頂いた事だけでなく、春、吹き矢(くじ引き)に当たって御吟味方のお役に就いてしまったご自分を、常盤井様が何くれとなく助けてお励まし下さったり、初夏には青い梅を誤食した花子様を、お義母様の所のお女中の初島様が、赤鬼先生の所に運んで下さり事なきを得た事も。
兎にも角にも、皆さまの優しさと支えが無ければ、幼い子供二人を一人手(ワンオペ)で育てながら、家事も大奥(PTA)のお勤めもこなしつつ、どうにか無事で、この十月の産み月を迎える事は出来なかったかも知れない。そう、このお腹のお子は、助けてくださった皆様の優しさの賜物に違いない。
だから私はこの子の御名には是非、「優」の文字を入れたい、安子様はそのように思われたので御座います。
「まあ、良いんじゃないか?」
ご夫君は煙草の煙を気持ち良さそうに鼻から二筋出すと、そう仰いました。
「本当? 本当に、『優』の字を使っても良いのですね? 嬉しい」
安子様はご自分の意見が受け入れられた事が嬉しく、思わず急に立ち上がろうとなさいましたので、ご夫君は安子様の身重のお体を素早く御手でお支えになり、
「おいおい、大事な体だ、無理をするでない」
と優しく御細君をお気遣いになり、もう一度縁側にそっとお座らせになりました。
「考えて見れば、太郎の名も、花子の名も、男の子ならこれ、女の子ならこれと、私の亡き父が付けたものだった。もう男の子も女の子も揃っているのだから、三人目は、自ら腹を痛めるお前が名付けるのも良いかも知れぬ」
ご夫君がそう仰ると、
「そうですか? 本当に、本当にありがとうございます! 嗚呼、益々この子に会える日が楽しみになりましたわ。そうそう、そろそろお夕飯の支度を始めませんとね」
安子様はそう仰ると、お庭で遊んでいる太郎君と花子様に向かって、
「太郎、花子。この時期は日が暮れるのも早いから、暗くなる前に家に引き上げて来るんですよ」
とお声がけになりました。
安子様は、ご夫君の肩に支えられながらゆっくりと縁側から立ち上がると、懐に入って居る紐を出してお袖をたすき掛けにしながら、厨に向かって歩みを進められたので御座います。
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