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大奥(PTA) 第二十六話 【第五章 目安箱】
【第五章 目安箱】
安子様のそのお声を聞いて、紙を数えたり、お伝の方様に申し付かっていた諸々雑多な御作業を手分けしてなされていた他のお母様方が、驚いて駆け着けました。
「ああ、これではちょっと、このまま刷りに回すのは無理そうねえ」
常磐井様がその蝋原紙を手に取ると、整った美しい文字が几帳面に書かれたその下に、『御推挙奉り候』の『候』の文字の最後の払いの部分が、一寸(3cm)ほど太く斜めに流れてしまって居るのを見て取りました。
方々は、確か何処かに蝋を溶かして修正するお液があったはず、と手を尽くして探されましたが、ちょうどどこかの御係が使い切ってしまっていた様で、空の液瓶が一本見つかったのみに御座いました。
大人達の緊迫した空気に、花子様はただゞ大きな声で泣くばかりでしたが、そのご様子をご覧になって安子様は、子供に罪は無いとは言え、ああ、泣きたいのは私も同じですよ、と心折れる様な思いで御座いました。
「大丈夫、大丈夫。蝋紙はあと二枚も御座います。もう一枚、書かれれば済む事。ただ、そうねえ、お子様方は……」
と常磐井様が仰ると、
「常磐井様、私が次の間で、うちの子と花ちゃんを見ておりますよ。牧野様、安心して御作業に専念なさいな」
この様に、芳子様のお母様が仰って下さりました。
「誠にかたじけのう、有難う御座います。花ちゃん、よっちゃんのお母様の仰る事を良く聞いて、良い子にして居るのですよ」
安子様はそう仰って花子様を次の間まで見送られますと、文机に向かい、今度こそは、と二枚目の蝋原紙を文鎮に固定し、窺書(アンケート)を書き始められました。
此度はするすると事が進み、文章の中程まで鉄筆を進める事がお出来になりました。
嗚呼、こうして皆様にご協力を頂いて、集中出来る場を作って頂いて居るとは、誠に感謝に堪えぬ事に御座います。
幼いお子を見ながらでは、こうした物書きのようなちょっとした御作業も、きちんとやり遂げるのはなかなか容易な事では御座いません。こうした事はお子を産み育てる前の、若かった娘時分には思いも寄らなかった事よ、と安子様はお思いになるのでした。
「さて常磐井様、蝋紙を書き終えましたよ」
安子様はそう仰って鉄筆を置かれると、常磐井様に書き上がった蝋原紙をお見せになられました。
「ああ、素晴らしい書き上がりで御座いますね。早速、私が木枠と回転棒(ローラー)を使って刷りに入りましょう」
「それは良かった。ほっと致しました。では、次の間に花子を迎えに行かせて頂きますね」
安子様は、書いている間も内心花子様のご様子が気になり、気が気では無かったので、矢も盾もたまらず、花子様が芳子様と過ごされている次の間に向かったので御座います。
安子様と芳子様のお母様は、娘達を連れて御座之間(PTA会室)に戻って参りました。
常磐井様は硝子板に黒い洋墨(インキ)をたっぷりと流し、回転棒(ローラー)でころころと液を広げ始められました。一方で木枠の方に、安子様が鉄筆で美しくお書きになった二枚目の蝋原紙を挟み込まれ、上から回転棒を当てて洋墨(インキ)を満遍なく広げられますと、使い古しの藁半紙の裏紙で一枚試し刷りをなさいました。
<混沌(カオス)>
「まあ、安子様の鉄筆のお筆跡が良いからこそ、この様に美しく刷り上がりましたよ。早速、本刷り致しましょうね」
常磐井様が嬉しそうにこう仰ると、常磐井様の御手元を目を輝かせてご覧になっていた、花子様と芳子様が回転棒(ローラー)に大変ご興味を示されました。
「おばちゃんずるい。花ちゃんもごろごろする!」
すると、芳子様も、
「わたしも、わたしも。ごろごろ良いな。ごろごろする!」
二人ともまだまだお小さいので、言い出したら中々聞いては貰えません。ただ、洋墨(インキ)のたっぷり付いた回転棒をこのお小さい方々に手渡したら、一大事になる事は間違い有りません。
「困りましたね。あ、あそこに良いものが」
安子様は、まだ洋墨が付いて居ない予備の新しい回転棒を一本、棚の上に見つけたので御座います。
「ああ、これは良いわね。まだ汚れて居ないし、尖った部分も御座いません。これでしばらく遊んでいて貰いましょう」
芳子様のお母様はその新しい回転棒(ローラー)を見て、安子様に目配せしてこう仰いました。
「さあさ、花ちゃん、よっちゃん、こっちで仲良くごろごろしましょうね」
安子様は藁半紙の裏紙を一枚敷くと、新しい回転棒(ローラー)で、常磐井様が御作業するのを真似て、子供達に御手本をお見せになられました。
一方で常磐井様は、当て台の上の木枠に沿って回転棒を転がして洋墨(インキ)を広げ、木枠をぱたぱたと開け閉じして、何枚も何枚も窺書(アンケート)を刷り始められました。おりんさんや他のお母様方は、刷り上がったばかりのまだ乾いて居ない藁半紙を受け取ると、一枚一枚お並べになり、乾かす作業をされております。
お小さい花子様と芳子様は、大人方のする事をお真似になるのが大好きですので、ごっこ遊びを始められました。おませな花子様は、芳子様にこう仰いました。
「お師様(教師)ごっごね。花ちゃんはお師様をやります。お師様はごろごろをします。よっちゃんは寺子(生徒)ね」
花子様はそう仰って、一本しか無い新しい回転棒(ローラー)を掴むと、裏紙の上でごろごろと回し始めました。
それを見た芳子様は、駄々を捏ねてこうむずかりました。
「いやだ、いやだ! 寺子なんて嫌。よっちゃんもお師様やりたいの!」
一本の回転棒(ローラー)を巡って、二人の幼子が争いを始めてしまわれました。大人達も懸命にお止めするものの、中々意地の張り合いは終わるものでは御座いません。
「これは、よっちゃんの!」
「いえ、花ちゃんの!」
回転棒(ローラー)を二人で引っ張り合い、花子様の方が少しだけ力がお強かったのか、芳子様のお手を回転棒から外すと、芳子様の体の平衡が崩れ、常磐井様が御作業なさっている当て台(作業台)の方に倒れ込まれました。
「あ!」
芳子様のお体が急にぶつかって来たため、常磐井様も平衡を崩し、安子様が丹精込めて鉄筆で書き上げられた二枚目の蝋原紙が挟まった謄写版(ガリ版)の木枠が、たっぷりと洋墨(インキ)を付けたまま、勢い良く床に落ちたでは御座いませぬか。 そして、硝子板の上に置いていた黒の洋墨(インキ)の付いた方の回転棒(ローラー)も、一緒に床に落ちました。
「わあああん」
芳子様の大きな泣き声が響き渡ると、回転棒(ローラー)を握り締めた花子様も負けずに大きなお声でお泣きになり、御座之間(PTA会室)はまさに渾沌(カオス)、と言った御状況になったので御座います。
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