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大奥(PTA) 第三十二話 【第六章 提灯】


【第六章 提灯】

 運の悪いことに、太郎君たろうぎみの肘にぶつかった手燭てしょくは、石段の脇に積んで有った炭熾すみおこし用の焚き付け薪の上に勢い良く落ち、中の蝋燭ろうそくが倒れました。

 焚き付け用の薪は普通の薪と比べてずっと細く、この所晴天続きでしたので大変良く乾いておりました。落ちた蝋燭ろうそくの炎は先ず一本の細い薪に燃え移り、だいだいがかった飴色あめいろの炎が縦に細く伸び、風が無いので上に真っ直ぐに細い煙を上げながら、次の薪、また次の薪へと燃え移り始めた時には、七つの太郎君たろうぎみは一瞬呆然と立ち尽くすしか有りませんでした。

 次第に大きくなる炎を見て、数え三つ(2歳)の花子様が怖くなって大泣きを始めると、太郎君たろうぎみは正気を取り戻し、
「そうだ、水、くりやに行けば水が有る。花子、ちょっとここに居なさい。すぐ戻る」
 そう仰ると、土間どまの勝手口に向かって走り始めました。

<手水鉢>

 一方、川原から自宅の方角に煙の筋が上がって居るのにお気付きになられた安子様は、ここのつき身重みおもの身を押して御自宅に向かって走って行かれ、とうとう屋敷の門前に辿り着かれた、その時に御座います。

「わあゝん、おかあたま! おかあたまあ!」
 と、小さい女子おなごが泣きじゃくるお声が聞こえました。安子様はその声が、確かに聞き慣れた愛娘まなむすめのもので有ると確信なさると、門前の前栽せんざいを突き破るような勢いで、声のするかわやの方に駆け出されました。

「ああ、大変な事に。火が、火が薪に!」
 安子様は、焚き付けの薪の上に、落ちた手燭てしょく蝋燭ろうそく、そしてまさに今燃え盛らんとする飴色あめいろの炎を見て取ると、事の次第のほぼ全てをお察しになり、一瞬、頭の中が真っ白になりかけました。

嗚呼ああ、こうしては居られない」

 安子様は提灯ちょうちんを地面に置くと、身体中の力を振り絞って、その場にへたり込んで泣いていらっしゃる花子様を抱き上げ、少し離れた所まで避難させますと、火元まで駆け戻り、帯を解いて単衣ひとえを脱いで、襦袢じゅばん一枚のお姿になられたので御座います。

「あそこに水、手水鉢ちょうずばちが有る」

 先ほど太郎君たろうぎみが眺めていた、満月が水に映り、ふち鍬形虫くわがたむしが止まって居たあの手水鉢ちょうずばちは、今もそのままに水を湛えて月を静かに揺らしておりました。

 白い襦袢じゅばんに着付け紐一本をお腰に巻きつけられたお姿の安子様は、脱いだ紺の矢絣やがすり単衣ひとえを、両手で勢い良くその手水鉢ちょうずばちの中にお浸けになられました。

 手水鉢ちょうずばちの水に映った淡黄たんこう色の月が、ころもで割り出された波紋で滲み、そのふちでのんびりと休んで居た鍬形虫くわがたむしも、驚いて大きな羽音はおとを立てて何処かへ飛び去りました。

 安子様は手水鉢ちょうずばちから濡れた単衣ひとえを取り出すと、渾身の力で上から下に向けそれを振ってお広げになり、もう既にまき五、六本にも燃え広がって居る飴色あめいろの炎の上に、ばさりとお被せになられました。

「ああ、これで、これで火は消えたでしょうか」

 安子様は、匂いと煙で少し気が遠くなりながらひとりごちると、上げた目線の先には、心配そうなお顔で水の入ったたらいを抱えた、小さくて頼り甲斐のある我が息子、太郎君たろうぎみの姿がそこに有ったので御座います。

「太郎……。よく御無事で」

 御自宅の方角にのぼった煙を目になさり、川原からここまで、不安なお気持ちのまま無我夢中で駆け抜けて来られたここのつき身重みおもの安子様は、この時息は途切れ途切れで、顔色は青ざめ、唇も葵色あおいいろになって血の気が引いたお顔でいらっしゃいましたが、太郎君たろうぎみの可愛らしいお顔をご覧になられると、ほんのひと時、お顔に気色けしきが戻られました。

「お母様、申し訳有りません。私が手燭てしょくを薪の上に」
 太郎君たろうぎみがそこまで言うと安子様は、
「分かりました。それは良いから、その手に持って居るたらいの水をここに掛けてちょうだい」
 と優しく仰り、火元の薪の上に掛けられた濡れた単衣ひとえを指差しました。

 太郎君たろうぎみは、
「はい」
 とお返事をなさいますと、七つの男子おのこごが持てる精一杯の量の水が張られたたらいの水を、まだ消えそびれてかすかにいぶって居る薪の上に、ざばとお掛けになりました。

「ああ、消えた。やっと。有難う」

 安子様は消え入るような声でそう仰ると、張り詰めた緊張の糸がぷつりと途切れたかのように、青い顔をしてその場に倒れ込まれたので御座います。

次章に続く

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