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大奥(PTA) 第三十七話 【第八章 名前】

【第八章 名前】


<産み月>

 それから五日後の事に御座います。安子様の義母ぎぼ奥方様おくがたさまの所にお仕えの初島はつしま様が、安子様の産み月が近いと言う事で、屋敷に御様子を見に訪ねて下さりました。

「さて、御産気付ごさんけづかれましたら、前の花子様の御出産の時に太郎君たろうぎみをお預かりしたのと同様、わたくしどもで太郎君たろうぎみと花子様をお預かり致しますね」
 と初島はつしま様が仰ると、
「誠にお手数をお掛け致します。うちの主人は育児の事はからきしなもので、預かって頂けると本当に助かります」
 と仰って、安子様は初島はつしま様に深々と頭をお下げになられました。

「頭をお上げになって下さいませ。御出産は、おなごにとって命懸けの所業。お命を落とされる母子ぼしとて少なくは有りません。御陣痛が来ましたら、三番目のお子を無事にお産みになる事だけをお考えになって下さいませ」
 と、初島はつしま様は仰いました。

 安子様はその言葉に深くお頷きになられると、
「そうですね。太郎と花子を産む時も、言葉に出来ぬ程、お産はそれぞれに厳しいもので御座いました。産む時だけでなく、お産の後も……」

 安子様は、何か思い出したくもない事でもお有りなのか、目をおつむりになり、唇を一度固く引き結んでから、ようやっとお口を開かれました。

「それで、初島はつしま様。お義母かあ様の事なのですけれども……」

「お義母かあ様は、最初の太郎のお産の時も、次の花子のお産の時も、生まれたら直ぐに駆け付けて下すって……。それは有難い事なのですが」

 安子様は語りながら、数年前の辛い思い出を具体的に思い起こされた様で、一度ぐっと下唇を噛んでから、こうお話を続けられました。

「なんでも、お義母かあ様のお話では、御母御おははごは子を産み落としてから七日間は、横になると頭に血が上るから一睡もしてはいけない、と仰せられまして。
 産後は血の道(ホルモンバランス)が崩れて、乳も張り、体がしんどいにも関わらず、横でお義母かあ様が、私が眠ってしまわぬ様に七日間ずっと見張って居られて、結局一度も横になることも眠る事も許されず、その後しばらくは体の具合も悪く、家事も手に付かぬ程、気鬱きうつになってしまったので御座います」

 そのお話を聞いた初島はつしま様は驚いて、
「まあ、その様なおいたわしい事が。その時分、私は太郎君たろうぎみのお世話で慌ただしく、お気付き申し上げる事が出来ませず、誠に申し訳御座いませんでした。
 七日間眠ってはいけない……、確かにその様な迷信を、固く信じて疑わないご老人もまだいらっしゃるとは聞き知っておりましたが、奥方様おくがたさまがまあ、そうで御座いましたとは」

 初島はつしま様はお優しい方なので、安子様が産後眠ってお体を休める事も叶わず、さぞやお辛くしんどかった事でしょうと、心から胸をお痛めになりました。

「分かりました。奥方様おくがたさまには私の方から、上手くお話ししておきます故、どうぞご安心して、元気な赤子あかごを産んで下さいませ」

 初島はつしま様がこう仰ると、
「ほんに、この様な事まで。初島はつしま様には大変ご迷惑をお掛け致します。宜しゅうお頼み申し上げます」
 安子様は畳すれすれまで、初島はつしま様に丁寧に頭をお下げになられました。

 その五日後のお昼過ぎごろから、安子様は四半刻しはんとき(約30分)おきに、月経の一番重い時の様な痛みを腹部にお感じになられておりました。安子様はこれが初めての産み月ではない為、この痛みが陣痛と言うものだと御存知でしたので、寺子屋から戻ったばかりの太郎君たろうぎみと花子様を、ご近所の奥方様おくがたさまのお屋敷に居る初島様はつしまさまにお預けになる為、時折来る痛みをこらえながら、子供達にお支度をさせておりました。

 安子様は、段々と間隔が近くなって来る痛みにお顔をしかめながら、二人の子供達の御手を引いて御自宅の門前の前栽せんざいを抜けて、奥方様おくがたさまの御屋敷に向かおうとなさりました。

<産屋>

 その時に御座います。

 安子様の中の何かが風船の如く割れた様な妙な心地がし、足の間から暖かい湯の様なものが溢れ出し、したたり落ちるのをお感じになられました。

 安子様の只ならぬご様子に、向かいの屋敷の前で立ち話をして居た三人の初老の御婦人方が、心配して思わず声をお掛けになりました。
「ちょ、ちょっとあんた、身重みおもでしょう? ああ、こんなに。破水して居るじゃあないか」
 三人の御婦人方うち、恰幅の良い一人が、安子様の体を起こしながらこの様に仰いました。

「そうだよ。これは大変だ。産婆さんばは? 産婆さんばを呼ばないと。ご新造しんぞうさん、あんた何処で産むおつもりだい? 御自宅なら、今直ぐにお戻りなさい。私が産婆さんばを呼んで来ますから」
 もう一人の、胸が薄く、二本の細筆の様な御御足おみあしのご婦人が、畳み掛ける様にこう安子様にお尋ねになりました。

 安子様は、うめくような苦しげなお声で、こうお答えになられます。
「皆様、かたじけのう御座います。自宅の離れの納屋なやむしろを敷いて産屋うぶやこしらえて有ります。あ、あと、この子達の預け先は……」

「ああ、分かったよ。十字路を曲がって三軒目の牧野さんの所だね。そうさ、小さいお子が居ちゃあ、お産には足手纏あしでまといだからね。あたしに任せな」

 頭を手拭いでほっかむりにした中背ちゅうぜいのご婦人が、胸を叩いてこう仰ると、
「さあ、お子達こたち。あんたのお母様はこれから、お産、って言う大事な大事なお勤めが有るんだ。預け先で良い子にして居られるね」

 太郎君たろうぎみ中背ちゅうぜいのご婦人に向かってこっくりと頷いて、その方の差し出した右手を握り返すと、花子様の背を押し、その御婦人のもう一方の手を握るように導かれました。

「さあ、御新造ごしんぞうさん、産屋うぶやの方に戻るよ。肩を貸すから、ゆーっくり進むんだよ。今は? 陣痛と陣痛の間かい?」
 恰幅の良いご婦人が、出産の御経験者らしくそう仰ると、安子様はその方に力無く頷き返し、ご婦人の肉付きの良い頼もしい肩に、右手を回されたので御座います。

「おかあたま、おかあたまあ!」

 恰幅かっぷくの良いご婦人の肩を借り、門の前栽せんざいを抜けようとした安子様の耳をつん裂く様に、背後から数え三つ(二歳)の花子様の、母を乞うて泣く声が響き渡りました。

 安子様は身が引き裂かれるような思いでそれを耳になさいましたが、お産と言うのは女子おなごの一生の一大事、今はただ、このお腹の御子を無事に産み落とさなければ、万が一にも我が身に何か有ったなら、それこそが太郎や花子にとっての、この上無い不幸なのだからと気を張って、振り返らずに産屋うぶやに向かって歩み出されました。

 産屋うぶやに着くと、敷いたむしろの上に、座ってお産をする為のわらの詰まったたわらが置いてあり、産婦が力を込めていきむ時のための力綱ちからづなが、上から一本下がっておりました。そしてゆかに置いた盆の上には、例の小火ぼや騒ぎの時に、安産の御守りにと常磐井ときわい様に頂いた親子のすすきみみずくが、今にも語りかけて来る様な愛らしい目つきで、安子様を見守って居りました。

「さあ、さあ、むしろにお掛けなさい。そうだ、たらいはあるかい? あと、布巾ふきんも要るね。しんどいかい? 私がお子を産んだ時も、えらく大変な事だったよ」
 ご婦人が安子様にそう話しかけると、安子様はお辛そうな御表情でお体を上げて、それらの場所を指し示そうとなさいましたので、
「いいや、御免。あんたはじっとして居なさい。お勝手を借りさせて頂くよ」
 ご婦人はそう仰って母屋おもやの方に駆けて行かれました。

 その時、産婆さんば様を呼びに行った細身のご婦人が、腰の曲がった御年配の産婆さんば様を一人連れて、安子様の御自宅のお庭に駆け戻って参ったので御座います。

 安子様は苦しそうに陣痛に耐え、時折うめき声を上げておいででしたが、産婆さんば様はこの様な光景には常日頃から慣れておいでなのか、産屋うぶやにお入りになると、ゆっくりとお座りになり、お持ちになられた茶色の風呂敷包みを静かに開かれました。それから、恰幅の良いご婦人が持って来られた絞った布巾ふきんでお手をお拭きになると、安子様の下腹部を触診なさいました。

「なるほどね。もう破水してしまって居るが、子宮口こつぼのくちはまだ一寸いっすん(約3cm)しか開いては居らぬ」
 産婆様がそう仰ると、
「産婆様、それはどう言うことで御座いますか? まだいきんでお子を出しては行けないのですか?」
 産婆様をお連れになった痩せ型のご婦人がこうお尋ねになられました。

「馬鹿を仰るな。今いきむなど、とんでもない。今いきんだら母子共に命取りになる。もうしばらく待って見て、それでも子宮口こつぼのくちが開かなんだら、このはやめ・・・薬(陣痛促進剤)を使うよりほか有るまい」

 産婆様はこう仰って、先程開いた風呂敷包より、油紙あぶらがみに包まれた一包のお薬を取り出されたので御座います。


#創作大賞2024 #ホラー小説部門


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