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大奥(PTA) 第三十五話 【第七章 試練】
【第七章 試練】
赤鬼先生は険しい御表情で、診察道具棚から「とらうべ」(聴診器)を手に取られ安子様の腹部にそれを当て、胎児の心音をお確かめになられると、
「ああ、赤ん坊の心音が弱くなっている。ちくしょう、この子は九つ月だからまだ出て来てもらう訳にはいかねえ。頼む、持ち堪えてくれ」
辛そうなお声でこう呟かれ、常磐井様にこのように御指示を出されたので御座います。
「お慶、万が一と言う事も有る。この方のご主人を呼びに行ってくれないか」
常磐井様は、御心の痛みを堪える様な目で赤鬼先生の言葉に頷くと、掛けてある道行(コート)を取ろうと、花子様が眠って居る小さな御布団の脇を、起こさないようにそうっとお通りになられました。
<白翡翠>
太郎君は、もう先生のお言葉の意味がお分かりになる御年齢ですので、小さな胸が潰れる様な思いでお母様の青白いお手を取り、ご自分の両の手で握り締め、
「お母様、お母様……」
と消え入る様なお声で仰られると、その瞼の際から、白翡翠の玉の様な涙が一粒、安子様の御手の上にぽとりと落ちたので御座います。
その時に御座います。どなたかが御自分の脇をお通りになられた気配を感じ、花子様が大きな御声でお泣きになられたのは。
その御声と時を同じくして、陶器の様に青白く冷たかった安子様の御手に太郎君の涙の粒が落ちると、その周りから波濤の様に紅が差し広がり、安子様のお顔の方にも血の気が蘇って来たでは御座いませんか。
「は……な……ちゃ? 厠?」
安子様の口から微かにこの様な御声が漏れたのをお聞きになり、床を囲んでお座りになっていた御一同は、一瞬耳を疑って顔をお見合わせになり、少し間があって、ようやく御声を発する事が出来ました。
「お母様! お母様!」
太郎君は、堰を切った様に流れ出た安堵の涙を、お母様の腿に顔を埋めて拭われました。
「た……ろう? どした?」
安子様は、今正に途絶えようとする意識の底から這い上がって来る瞬間にも、我が子の事を考えていらっしゃったのでしょう。最初の言葉は、やはり愛するお子たちの御名で御座いました。
「お慶、お慶! 患者が目を覚ました。急いでこっちに来い!」
赤鬼先生は、大声で常磐井様をお呼びになられました。
「安子さん、ああ、よかった」
おりんさんが涙目でこう仰るのをご覧になり、安子様は、
「え、あ、皆さん? ここは一体……?」
と、一瞬御状況が飲み込めず、戸惑っていらっしゃるご様子でした。
「あんた、この身重の体で、一刻(2時間)以上も意識が無かったんだ。もう、一時はどうなる事かと思ったよ。」
赤鬼先生がこう仰ると、安子様は朦朧としながらも、
「ああ、皆さんに大変なご迷惑を……。そして花子、花ちゃんを厠に……」
と、急にお体を起こされようとなさったので、
「あんた、無理して起きあがっちゃいかん。暫くは絶対安静!」
赤鬼先生はそう仰って安子様をご制止になりました。
赤鬼先生は「とらうべ」(聴診器)を安子様の御腹部に当てながら、
「ああ、赤ん坊の心音も、さっきよりしっかりして来た。お慶、ぬるい白湯を持って来い。さっき儂が調合しといた漢方を、患者さんが落ち着いたらゆっくり飲ませるんだ。あと、滋養のある甘酒を用意しろ。ただし、この人は御妊婦さんだから、酒粕で作ったのじゃ無くて、麹から発酵させたやつでな」
といつもの元気な早口で、常磐井様に御指示を出されました。
<すすきみみずく>
長い夜がようやっと明けました。お庭で飼って居る早起きの白犬のハチがお腹を空かせて、くうんと鳴く声で常盤井様がお目覚めになったのと、ほぼ時を同じくして明け六ツ(午前6時)の鐘が鳴りました。
常盤井様は割烹着に着替えて、ゆうべ麹から発酵させて置いた甘酒が良い匂いを醸しているのを蓋を開けてお確かめになると、診察室で横になっていらっしゃる安子様の方へそうっと近づいて様子をご覧になりました。
安子様はすでにお目覚めになって居りましたが、やはり病み上がりのため視点が合わずぼうっとして、すすきみみずくの置いてある辺りを、横になったまま見るともなく眺めていらっしゃいました。
常盤井様は甘酒を瓶から小皿に移し、匙を添えたものを安子様の床までお持ちになると、
「ああ、大分顔色が良くなりましたね。具合は如何ですか? この甘酒は召し上がれそうですか?」
と優しくお尋ねになり、安子様が静かに頷くと、常盤井様はゆっくりと安子様の御口許に匙を差し入れると、少しずつその甘酒を患者に飲ませて差し上げました。
「あ、このすすきみみずく、御安産のお守りに一つ持ってお行きなさい。お産で苦しい時に、これを見れば少しは心休まる事でしょう」
常盤井様は、三杯目の匙をゆっくりと安子様のお口に当てながらこう仰いました。安子様はまだ力なく、常盤井様に感謝のまなざしで頷き返すだけでしたが、甘酒の温かく優しい味に、心がゆっくり解けて行くのを感じておりました。
「そうそう、私は安子様のご主人の所に、事の次第をお伝えに行かなければならなかったのだわ。先生を起こしますから、安子様はそこで静かに寝ていらっしゃって下さいね。動いてはいけませんよ」
甘酒の滋養が御弱りになったお体に染み渡る心地で、さきほど常磐井様が匙を傾けながら語って下さったお話しも併せて、安子様は横になったままぼんやりと、昨日の長い一日を思い返しておりました。
新川西の蔵での夜の大奥(PTA)御吟味方(選出委員会)のお集まりが終わり、その帰路の途中、自宅の方角に煙を見つけて懸命に川原を駆け抜けて、太郎と共に小火を消した事、その後、倒れて意識を失い、駆けつけたおりんさんのお兄様をはじめとする火消しの《《と》》組の皆さんが、常磐井醫院に身重の体を安全に運んで下さったこと。
途中、母子共に危険な状況に陥りながらも常磐井先生が手を尽くして下さり、どうにか意識を取り戻す事が出来た事。その間、常磐井様やおりんさんがずっと花子や太郎を見ていて下すった事。なんとお優しい方々なのであろう。
袖触れ合うも多生の縁とは言え、家族でも無い他所様方が、私やお腹の御子の為に、夜を徹してここまで手を尽くして下さるとは、どれだけ感謝をしてもしきれるものではあるまい。もしもこの方々が私を助けて下さら無かったら、今頃は一体どの様な大惨事が起こっていた事で有ろう。安子様はそうお考えになると、胸に熱いものが込み上げて来たので御座います。
<飯>
一方その頃、安子様のご自宅では、この長い一夜の出来事をまるでご存知ない御夫君が、何処ぞのご近所の鶏の鳴き声で、その深く長い眠りから、ようやっと目を御覚ましになられたので御座います。
御夫君は眠い目をお擦りになりながら、寝る前に敷いてあった三組の御布団のうち、御自分の一組以外の残りの二組がもぬけの空になっている事に、ようやっとお気付きになられました。
「あれ? 花子、太郎? お前たち、もう起きたのか?」
その様に仰って、きょろきょろと辺りを御探しになられて居るうちに、ごおん、と六ツ半(午前7時)の鐘が鳴るのを耳にされました。
「あゝ、もうこんな時分か。急がないと遅参してしまう」
御夫君は、御髪も寝起きのぼさぼさのまま、慌てて居間へ起き出して見ると、そこにもどなたも居りません。
「あれ? おかしいな。厨の方に居るのか?」
御夫君は、いつもこの時分なら御細君の安子様が割烹着姿で台所に立ち、竈門から立つほかほかの白米の湯気の中で、熱々の御御御付けをよそっていらっしゃる筈で御座いますが、その姿は厨にも見当たりません。
「おーい、安子、一体何処へ行っちまったんだ? 俺の飯はどうなるんだ? おい、安子!」
次章へ続く
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