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大奥(PTA) 第二十七話 【第五章 目安箱】
【第五章 目安箱】
<怪我>
「お怪我は御座いませんか?」
辺りが洋墨(インキ)で真っ黒になろうとも、完成しかけた仕事が台無しになろうとも、母御らが先ず真っ先にお気に掛ける事は、お子の無事。
安子様と芳子様のお母様は、咄嗟に各々自分の娘御を抱き抱え、それ以上何も触らせまいと、小さいお体をぎゅっと抱き止めたので御座います。
「嗚呼、良かった。硝子板は落ちて居ない……」
安子様は割れ物が無いのを見て取ると、先ずはほっと胸を撫で下ろされました。
「これこれ、触るでない。洋墨(インキ)でお手が真っ黒ではないですか!」
芳子様のお母様は、芳子様が尻餅を搗いてお手を床に着けた拍子に、洋墨(インキ)でお手が真っ黒になったのにお気付きになられました。
「あ、あ!」
慌てた芳子様が体を動かされますと、そこら中に乾かして有る印刷済の藁半紙に触れてしまい、幾枚も小さい黒い手形だらけにしてしまわれました。
紙はまだ良い、また刷れば良いのだから。問題は……。安子様は、あと一枚しか残って居ない蝋原紙がどうなって居るか、恐る恐る目でお探しになられたので御座います。
嗚呼、もしこの最後の一枚の蝋原紙が、汚れたり破れたりしていたならば……。仮に無事だったとしても、お子達の事を気に掛けながら、私はもう一枚を書き損じなく書き終える事が出来るので御座いましょうか。もしまた書き損じでもしたら……。
そのように重圧を感じて居られる安子様は、追い詰められてお苦しいお気持ちになられました。
それにしてもこうした度重なる困難、それを子供に怒ったって仕方がない、それは母親達全員が分かっていること。しかし漂うこの徒労感とやるせなさ、積み木を積み上げても積み上げても崩れて振り出しに戻る様なこの虚しさ、子供は確かに日々成長して居るし、次世代を育てる事、これは大変意義のある営みに相違ない。
ただ子育て中、余りにも畳み掛ける様に、日々絶え間なく起こるこの手の困難と徒労感に、母親達が子育ての喜びを実感出来る速度がまるで追い付いて行かない。この気持ちの正体は、一体何なので有ろうか。
安子様の心の葛藤がお聞こえになったのか、安子様のお腹のお子は元気に中から腹部をお蹴りになりました。
その時、
「安子様、最後の一枚の蝋原紙は、離れた所に置いて有ったので無事でしたよ! まあ、木枠の中に有った物はもう傷んでいて無理そうですが。
此度は本当に、私の不注意でこんなことになってしまい、大変申し訳ございません」
常磐井様はそう仰って深々と頭をお下げになりました。
「いいえ、常磐井様、頭をお上げになって。子供がした事ですから」
安子様は、常磐井様にこう仰ると、意を決してこうお続けになられました。
「分かりました。この最後の蝋原紙、私が必ず書き上げましょう」
「『御芳名_____(御記名之事) 以上』、と。ようやっと、書き上がりましたわ」
安子様が満足げに鉄筆をお置きになられると、
「あゝ安子様、ついに、遂に書き上げられましたね。まあ、なんと美しいお筆蹟だこと」
常磐井様は書き上がりを御覧になり、目を細めてお褒めになられました。
「凄いじゃないか。此度は難儀な事だったねえ、あたいなんか、この数時間が一週間ぐらいに長く感じちまったぐらいだよ」
おりんさんや、其の他の皆様が口々に安子様の御奮闘ぶりをお讃えになると、安子様は御吟味方の、御係としての結束が強まった事をご実感になり、やりがいをお感じになられました。
「早速、刷りに入ろうじゃ無いか、皆々御準備はいいかい?」
おりんさんが、先程洋墨(インキ)を拭き取って綺麗にした謄写版(ガリ版)の木枠に手を掛けて刷りの御作業を始めようとなさった、まさにその時に御座います。
<留め書き>
「御免なすって。御納戸役(用務員)に御座ります。
御吟味方の皆様に御座いますか。御吟味方取締のお伝の方様より、先程、御伝言をお預かり致しました」
「は。御納戸役(用務員)どの、わざわざの御足労、痛み入ります」
常磐井様がこう仰ると、御納戸役(用務員)の男が、手に握って居た一枚の留め書き(メモ)を常磐井様に手渡されました。
「では、儂はこれで」
御納戸役(用務員)様はそう仰って、そそくさと御座之間(PTA会室)を後にされました。
常磐井様はその留め書き(メモ)に目を通されると、またか、と言った落胆の表情で嘆息を漏らされました。
その様子をご覧になって居た好奇心旺盛なおりんさんは、堪らず常磐井様の後ろに回って、お伝の方様のお筆蹟で書かれたその留め書き(メモ)を覗き込まれると、こう仰いました。
「なんと、次のお集まりは神無月(10月) 十日、暮六ツ半(午後7時)、新川沿い 津軽屋 西の蔵だって?」
「暮六ツ半(午後7時)? 何故その様な遅い刻限に……」
安子様は不思議に思い、疑問をお口に出されました。
「まア、なんでだろうねえ。大方、お伝の方様が昼間はお忙しいって事なんだろうよ。あの方は大店の津軽屋の御内儀(奥様)で、ご自身も表でばりばりとお働きでいらっしゃるからねえ」
おりんさんがこうお答えになりますと、
「ああ、そうなのでございますか。それは大変なお立場なのですね」
と安子様が仰いました。
「まアね、何でもお伝の方様は、津軽屋の本家の家付き娘でいらっしって、幼い頃より才気煥発、しかも津軽屋は男の子が居なかったもんだから、お伝の方様に婿を取らせたんだけど、そいつがまあ、見込み違いでぱっとしない男でねえ、ろくな役にも立たないもンだから、結局お伝の方様が、店の奥だけで無く表も取り仕切る羽目になっちまったんだってさ」
「ああ、その様なご事情がお有りになったのですね」
と安子様が相槌を打たれますと 、
「大方今時分は、盆前に手代が取りそびれた掛けを、御内儀自らが一軒一軒取りに回ってるって話も聞くねえ。大勢の丁稚(奉公人)の生活が掛かってるんだから、大店のおかみも楽じゃあ無いってことだね」
おりんさんはこうお続けになったので御座います。
常磐井様は、こう仰います。
「昨今は昼間、満日(フルタイム)で働くおなごも増えて来て、大奥(PTA)のお集まりも夜になってしまう事が多くてね。上の健太郎の時にも、幾度か夜のお集まりが御座いました。夜は寺子屋も閉まって居るから、茶屋(ファミレス)を借りたり別の場所でやる事も多い。それにしてもお伝の方様もお人が悪い。先程、御広座敷(多目的室)に皆が居る時に、次のお集まりの刻限と場所をご相談下されば宜しかったのに」
「いいや、そんな事をしたら、我々から異論が出ちまうから、わざわざこう言う留め書き(メモ)を御納戸役(用務員)に渡したんだろうよ。有無を言わせないやり方でさあ」
おりんさんはこう切り返されました。
そのやりとりを伺いながら安子様は、確かに、御吟味方(選出委員)取締(委員長)を決める初顔見世の時分に、先の御吟味方取締の荻野様が、取締(委員長)には御会合の日取りを率先して決められる御役得(メリット)が有る、と言うお話をなさっていた様な、と思い出されました。
しかしながら、安子様のお子様二人はまだお小さく、神無月(10月)と言えば九つ月(九か月)で、更にお腹も大きくなって来る時期。夜の暗い時分に提灯の灯り一つで、如何様にして新川 西の蔵の御会合に出席する事が出来ましょう。そのように思案で心が重くなる安子様で御座いました。
次章に続く
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