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「《音を楽しむ》でなければ《音楽でない》」のか

本日も「宿題」への回答をやらせていただきたいと思います。

音楽に寄り添い、その音楽が持つメッセージそのものを汲み取って表現するにはどうすればよいと思いますか。
昨今の歌が上手いは歌を自分のものにしていると同義だと思っておりますが、いまいち納得できません。国語によくある心情を答える問題みたいだ、と感じます。
そうではなく、音の流れが表す意味をできる限りそのまま代弁することを追求したいです。アドバイスお願いします。

うーん、尖っている。あまりサークルに友達が多くないアカペラ3年目の大学生の匂いがする。
気持ちはわかるんですけれどもね。僕も同じようなことを考えてアカペラをしていた時期がなくはなかったので。
とはいえ、共感や賛同を得にくい立場であることは確かだと思います。それがわかっているからこそ、あえて僕に問いを投げてくださったのでしょう。

言いたいことは色々あるので、一つ一つ順番にお伝えしていきます。
歌やアカペラに限らず音楽一般、さらにいえばアート的表現一般に、それなりにかかわる話になると思います。
是非いろんな方にお読みいただければ幸いです。

それでは、どうぞ。


突然ですがクイズです

いきなり歌とは関係のない話ですが、みなさんはこの世界に、どれだけの数の言語が存在しているかご存知でしょうか?
僕もこの話をするにあたって調べてみたのですが、大変びっくりしました。

なんと、その数7,000以上(ソース:https://www.google.co.jp/amp/s/tree-file.com/lifehack/language/amp/)。
国連加盟国の数からせいぜい700とか800くらいかな、と予想しつつググったのですが、およそ10倍もの数字が返ってきて非常に驚きました。

この中にはいわゆる方言も少なからず含まれてるそうなので、境界の曖昧な(人によっては同じとみなしたくなる)言語が別個のものとして数えられたりして、多めに見積もられている可能性はあります。
しかし、それを差し引いても、世界には数千もの言語が存在しているというわけです。

言語とは、いわば世界を切り分けてそれぞれに名前をつけ、それらを呼んだり認知したりすることを私たちに可能にする構造、すなわち認識の体系です。
数千もの言語が存在するということは、言ってみれば、世界を認識可能な単位に切り分けて私たちに与えてくれる体系が、それだけの数存在するということ。
世界そのものは一つしかないはずなのに、認識の枠組みはそんなにたくさん存在するなんて、実に不思議な話ですよね。


優れた言語、劣った言語?

さて、もう一つお尋ねしたいことがあります。
この世界には現在数千もの言語が存在していると書きましたが、これらの言語のあいだに優劣や価値の軽重はあるでしょうか?

難しいですね。人によって判断が分かれるところかもしれません。

あえて僕の考えを言わせてもらえば、これはノーだと思います。
それぞれの言語は地域や民族の実態に即して独自の運命のもと発展したものであって、どちらが優れているとか価値があるといったことを、そうそう決められるものではないはずです。
日本語の中で考えてもそうではないでしょうか。標準語は津軽弁や関西弁より主流的に用いられてはいるかもしれませんが、より優れているとか価値があると言ったら、方言を使って生活している人たちは納得しないと思います。

たしかに、話者の数の多寡や、使用されている地域の経済的な強さによって、言語の通用度は変わってきますし、それを言語の強さとみなすことは間違いではないかもしれません。
でも、だからといって、英語や中国語はほかの言語より価値があるというのは変な話ですし、ましてや高い価値があるゆえに正しいのだなどと言い出すと、いよいよおかしな話になってきます。


「正しい音楽」という発想は正しいか

ようやく音楽の話に入ります。

体系そのものの間に優劣や価値の違いはないというのが僕の考え方であり、これは言葉以外にもある程度当てはまります。
すなわち、ある音楽ジャンルや分野、理論の体系が他より優れている、正しい、なんてことはないだろう、と僕は考えているわけです。
僕は別に音楽にそれほど詳しくないですが、アメリカのヒットチャートに載る音楽が世界一で、アフリカやアジアのマイナーな音楽がそれらに劣るなんて考え方は無茶苦茶だとは思っています。
金になるかならないか、社会的権威をもつかもたないかといった違いを差し引いて考えたとき、はたして音楽の間に優劣なんて付けられるものでしょうか?

今回「宿題」をくださった方は、音楽そのもの、音そのものの価値ということに、強いこだわりを持っておられるとお見受けしました。
それもどちらかと言えばintensiveなこだわり、音や音楽の多面性を丸ごと愛して広がりを楽しむというよりは、ある音やその連なりからは一義的に意味を汲み取ることが可能であって、それに忠実であることこそ演奏家の務めであるといったような、かなり張り詰めたこだわりを持っていると。
初めに僕が引っかかったのはそこでした。
別にそういうこだわりを否定する気もないし、ときに強く鋭いこだわりが創造性につながることもありうることもわかっているつもりですが、それを手放しに優れた態度とみなすことはできない、それを正しい考え方と前提して話を進めることはできないと、まず一番に思ったのです。

言語の体系が山ほど存在するように、音楽の体系だって山ほど存在するはずです。
体系の違いとは何か。認識の違いです。
ここでいう認識の違いとは何か。それは、ある音やその連なりを解釈する枠組みの違いです。

真面目な気持ちで音楽をやっている人なら、カデンツを「自然で心地よい」とみなす感覚が、あくまで西洋音楽の体系に根差したもの、世界中の音楽に普遍的に当てはめられるものでないことくらいは知っていると思います。
ある音の連なりをどう解釈し、どんな意味をそこに見出すかは、拠って立つ体系次第なはずです。
そうなってくると、音そのもの、音楽そのものって一体何だという話になります。
ある音を音楽的に捉えるとき、私たちはなんらかの音楽の体系を参照しているし、その体系は数あるフレームの中の一つにすぎないという前提に立てば、唯一正解の歌い方がどこかにあるといった考え方は、むしろ音楽の実情からズレた思考なのではないかとさえ僕には思えます。

もちろん、ある体系の枠内においてであれば、作品や演奏に優劣を付けることはありうると思います。
体系が提示する守るべき基準に照らして、これはダメだ、これは優れている、これは既存の体系に対して新奇で斬新だ、といった評価を下すことがおかしいとは思いません。
しかし、それにしたって、さまざまな体系が混淆している現代音楽においては、賛否の分かれる姿勢になりつつあることは確かです。
コンクールにおいては楽譜に忠実であることを評価すべきとする人もいれば、音楽的な創造性を評価すべきとする人もいるでしょう。
音というもの、音楽という体系から逆算して「正しい歌い方」を導き出すという考え方は、正しいようでいてそのじつ、普遍的に通用するような思想では全くない
そのことは覚えておいて損はないのじゃないかと僕は思います。


音だろうが歌詞だろうが

昨今の歌い手はみんな、国語の授業よろしく歌を読み解くばかりで、音や音楽そのものの魅力に対するアプローチが甘いーー言いたいことは理解できます。
歌詞やMV、アーティスト自身に関する情報といった音以外の手かがりから歌い方を編み上げるのは、そもそも音を楽しむ音楽のあり方としてどうなのか、といった疑念を、宿題をくださった方はお持ちなのでしょう。

たしかに言わんとすることはわかります。
ただ、音そのものに意味を求めようと、歌詞はじめ音以外の情報からアプローチしようと、音というナマの物理現象になんらかの枠組みに基づく解釈を加えてアートへと昇華する方向性には、別段変わりないのではないでしょうか。
アプローチが違うだけでやっていることはそう変わらないのに、他人がやっていることに目くじら立ててとやかく言わなくてもいいんじゃないかと、僕は考えてしまいます。
歌詞などから物語性を読み取って音に還元するアプローチが流行っているし、それが人気を得やすいのは確かだけど、自分はやっぱり音そのものに魅力を感じるからそれを追求するぜ、ほかの人はほかの人で好きにやればいいさ、で終わりじゃないかと。
もちろんそれが人に受け入れられるかどうかはまったく別の話です。
でも、自分があくまでもそこに魅力を感じるというのであれば、その気持ちを大事にしたらいいんじゃないでしょうか。


センスの磨き方

そのうえで、「音や音楽そのものの魅力を引き出すにはどうしたらよいか」について、簡略に僕の考えを述べて、この記事を終えたいと思います。

なお、初めに断っておきますが、「音楽が持つメッセージそのもの」「音の流れが表す意味」といった、質問者の方がお使いになっている言葉遣いを避けたのはあえてのことです。
音という物理現象そのものがメッセージを持つわけではなく、そこに意味を与えるのはあくまで人間であり、しかもその意味づけ方は参照する解釈のフレームによって異なる、という立場にたつ以上、ある音の流れからただ一つ正しい意味を汲み取ることができるはずだ、という発想にのっとった物言いを僕はできないからです。
あえて「音や音楽そのものの魅力を引き出すには」と問いをずらしたのはそのためです。

答えは端的にいえば、センスを磨き解釈の幅を広げていく、ということに尽きるのではないかと思います。
ある音はこちらではこう解釈されるが、あちらでは別の解釈を与えられて使われている、といった差異を楽しみ、その中で自分の好みや自分なりの体系を育てていけばよいのではないでしょうか。
センスを磨くというのは、基準に沿わないものを切り捨てる鋭さを養うことではないと僕は思います。
むしろ逆に、さまざまな異なる体系や価値基準を自分の中に取り込んで、一つのものを多面的に評価する力を伸ばしていくこと、それがセンスの涵養ではないかと思うのです。

とある音楽理論学習用サイトの受け売りですが、理論は音を解釈する道具の選択肢を増やすために学ぶものであって、正しい音楽と間違った音楽とを腑分けするためのものではないはずです。
この音はこういうふうにも聞ける、でも聞き方を変えるとこういうふうにも楽しめる、といったように、さまざまな味わいを感じ取れるのが、豊かなセンスではないでしょうか。
魅力的な表現とは、豊かなセンスでインプットしたさまざまな選択肢の中から、自分がこれぞと思ったものを選び取ってアウトプットすることだと僕は思います。
魅力的な歌い手になりたいなら、視野を狭めず、幅広いインプットによってセンスを磨くことを目指してはいかがでしょうか。
大して歌が上手くもなければ音楽に詳しくもない一個人の考えですが、多少の参考になれば幸いです。


おわりに

今回はいつもより少し語気の強い物言いをしてしまったかもしれません。
質問者の方のスタンスを否定しようという気はなかったのですが、結果そう読まれかねないところもあったかもしれないと少しヒヤヒヤしています。
まぁもう少し楽に構えたらいろいろ楽しいと思いますよ、っていうのが超大ざっぱな要約なので、そこがうまく伝わってくれたらなぁ……。

というのも、質問者の方はいま、自分のこだわりは貫かなくちゃいけない、そこをよすがに頑張らなくちゃいけないと思い込んで、苦しんでいるようなところがあるんじゃないかと、「宿題」を読んですぐ思ったからなんですね。
そして、その苦しみは感じつづけなきゃいけない苦しみなのか? こだわりは何のために守るものなのか?と少し疑問に感じたのです。
苦しみにもこだわりにも、産みにつながる意味のあるものとそうとは言い切れないものがあって、自分を縛っているのははたしてどちらかと考えつづけることが、ものを創る人にはとても大事だと僕は考えています。
むやみに自分を苦しめて視野を狭めるくらいなら、少し肩の力を抜いていろんなことを許容してみたらいいんじゃなかろうかと、そんなふうに思う次第です。

とまぁ、さすがに短い質問内容から、長々と憶測で物を言い過ぎたかもしれません。
これ以上言い過ぎを重ねてまずいことになってもいけないので、今回はこのあたりでおしまいにしたいと思います。
長文にもかかわらず最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。

それでは、今日はこのへんで!

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