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続・怒りや恐怖のおさめ方

前に書いたことの続き?詳細?いや、繋がる話と言った方が正しいか。
(その前回の記事は↓↓↓)

「怒り」は無力感の表れであると、最近何かで見た。
人は自分が無力であると打ちひしがれたときに怒りを感じるのだとか。

思い当たる節はある。

3-4年前の私は、まさにそうだった。
世界中を巻き込む騒動で、日本では同調圧力が急激に増大し人権をお互いにつぶしあう、それになんの疑問も感じないただただ狂っていく社会(私目線)の中で、ものすごい無力感と孤独感に思考が埋め尽くされた。
意を唱えることはおろか、疑問を持つことすらもキチガイの所業とみなされる状況だった。

マジョリティは正解。ある意味でこの世の真理だと思う。
正しいかどうかではなく、古い時代から勝者が理を作ってきた世界という意味では、ある種どうしようもない。
まさに"無力"だった。そうして、あの時期はものすごくいろいろなものに怒りを感じていた。すべてが敵のような感覚だった。
(ただあの時期に世界とは人間とは何なのかに向き合う時間ができて、そのおかげでまずは自分であるということが分かったのだけれど)

そんな無力感由来の怒りをそんなに感じなくなった今(ゼロではない)。テレビも見なくなり、ネット情報もある程度しばらく遮断していた時期を経て、感じること。

前回の記事でも書いたことに戻るが、世界全体が怒りに振り回されている。

男vs女
高齢者vs若者
外国人vs国民
〇〇人vs△△人
LBGT
SDGs

オリンピックでも、芸能人の失言にでも、とにかく様々に怒っている人をたくさん見かける。

勿論、ネットで見るからそう見えるだけで、きっといわゆるリアルな生活でそんなにイライラを出すことなどほとんどの人はないのかもしれない。

けれど、もしこの通りネット上に吐き出しているという話なのだとしたら、それは内にものすごい怒りを抱えているのではないか。職場や家族や友達の前では出せない感情が、きっとあるんじゃないのか。そしてその要因は、世界が大きな過渡期を迎えている中で、不安から無力感が生まれたことにあるのではないか。

この大きく変革をする世界にあって、我々のアイデンティティが根本から揺るがされている。そこへの不安が怒りに直結しているのではないかと思っている。

これまで何もしなくても誰かから何かからなんとなく与えられていたアイデンティティ(性別・国籍・職業・年齢etc)。そんなものはもう時代遅れで、人間はみなとにかく"同じ"であるとでも言いたいかのような妙なプロパガンダが繰り広げられている。

中でも、性差(LBGTも含)の話がきっと一番わかりやすい。とにかく「(一人一人の)個性でしかない」、もしくは「同じ人間である」と、性質的な違いすら認めずなくそうと必死のこの社会

でも、どうやったって男と女は違う。違うからこその役割がある。個人差=人間としての個性があるなんてものは大前提であってわざわざ話すことですらなかったはずだ。それが今は全面に主張して性差の違いを認めないことがかえって争いを生んでいる。からくりに気づかない一般人は、争いに乗ってしまう。

たとえば、男女の違いについての意見を述べる人は「個人差がある」は前提はある上で全体的な話をしていることが多い。そこへ「個人差があるだろう」「男/女だってこういう人はいる」と前提にわざわざ戻して話の腰を折る人が大量に現れる。今度はそれに反応した、最初の発言者側の立場をとる人たちが、逆に揚げ足を取りに行く。最初の発言者の話は、ただ怒りたい人たちの餌になっているだけと化す。

議論になど全くなっていない。

あるいは、性差の話じゃなくても、
失言をした有名人に怒りをぶつける人と、有名人を擁護する人
自称愛国者と左翼(にカテゴライズされるひとたち)
添加物反対と添加物擁護

二手に分かれて罵り合う。それも、お互いに自分たちの立場は"人間として正当"で、相手が変な思想を持っていると言いたげな主張をする。

とにかく文句を言いたい。怒りをぶつけたい。論破したい。自分が正しいと主張したい。

その裏側には、確かに言いようのない無力感がいるのかもしれない。
本当は自分が持つ性質であるアイデンティティを堂々と持っていたいのに、それが許されないかのような感覚に、気づかないうちに陥る。
自分と違う立場の人が目につく要因は、ここにあるのかもしれない。

当たり前に存在していたものが崩され、ポリコレだなんだと社会はどんどん"自由"や"平等"をいびつな形に変えていく。
特にコロナという騒動以降は、世界中で政府から国民への圧力に対する悲鳴が上がっている。自国の政策に手も出せないような状況で、今度は行ったこともない国の戦争被害の情報がインターネットで共有される。
不安は増大するばかり。

それが無力感に変わり、不安と怒りへ変貌をしているのかもしれない。

けれど、これは全て意図して創られていたとしたらどうだろう。

移民が暴れている情報ばかりを目にすれば、移民への恨みが増幅する。
スポーツででどう見ても男性にしか見えない人が女子の大会で優勝すれば、おかしいと怒りの声がたくさん上がる。
戦争で傷つく子供を見れば、傷つけた国や民族を恨む。

どれも人間としてありふれた怒りのように思える。あまりに自然と思える。

けれど、これが人々の感情を煽るためにわざとやっていることだとしたら…。そこになんらかの目的があったとしたら…。踊らされるのがばかばかしくもならないだろうか。本当に、恐ろしい世の中になっているのだろうか。

すべては可能性の話。

けれど、これまでの当たり前が通用しなくなっているのは事実。
当たり前に女であった。当たり前に日本人であった。
そのこれまで常識だったことが何らかの強い力で急激に90度に捻じ曲げるような動きがある。
それは、世界の1%の人間が残りの99%の人間を奴隷支配するために仕組んでいるという見方もできるし、ただ時代の流れでそうなっているという見方もできるが、とにかく一般人にとってはこの急激な転換が不安となり無力感が生まれ、怒りに変わっていっている。と考える。

とすれば、一般人である私たちはどうすればいいのか

私はやはり、「わたしに帰ること」なのだと思う。

何を与えられずとも、わたしはわたしとして生きる。自分のアイデンティティは自分で確立するという、ある種の開き直り。

自分とはだれか。
どんな人間か。
どういう生活をしたいのか。
どういう人生にしたいのか。

この時代を生きる一人ひとりが、外側の刺激に釘付けの視線を、一度自分に戻すことを求められているのではないだろうか。
それが、物事を捉える力を養い、不安や無力感を緩和し、出どころのわからない怒りから解放される手立てになるのではないか。

そういうのを伝染させたいのよね。


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