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海からもっとも遠い場所 / 創作

「あっ」目を覚ますと同時に、玄関に置かれた満ち満ちのゴミ袋が目に留まる。時刻は8時半を回っていた。夏を終え9月も暮れに入り、傾いた陽が9時前後にかけてこの部屋に侵入するような季節模様になっていて、ハンガーラックに掛けたTシャツの左肩を陽の光が濡らすのを見れば大体の時間の検討がつく。起き抜けに玄関に目が向くことは、一種の条件反射に近いものだった。
しかし収集車もとっくの昔に消えてしまったようなタイミングで目を覚ますとなると、これらの反射もまるで意味がない。戸口まで続く短い廊下を塞ぐ形で二つの袋が無造作に転がっている。片や冷凍食品やヌードルの空きカップが絶妙なバランスで色を作り出しているのに対して、もう一方の袋はまとめ買いした飲料水の亡骸で無色透明の塊になっている。
今日に至るまでの二週間、捨てるチャンスは4度もあったというのに尽くその機を逃し続けてここまで来ている。

半年前に、3年勤めた会社を辞めた。「お願いします」と頭を下げてから「お世話になりました」と頭を下げるまでの数年間、重篤な不眠症と生活を共にしていて、生きているという自覚を微塵も感じられなかった。
学生時代の友人の誰もが上手くやっているように見えてならない為に、入ったばかりの会社を辞めることすらはばかられる。ただそれだけの理由であくせく働き続けたのである。
飲みの場に出席する時には工場で着ていた作業着から、リクルートスーツにわざわざ着替え直していた。同じ授業を受け、同じだけ遊んでいた仲であるはずなのに、私を除いて、友人達は地元でそこそこ有名な企業に就職している。彼らと私との間にある明確な差は重々理解していてもそれを認めるとなるとまた別の話だから、服装という底上げを施して頭の高さを合わせるしかない。
特段人に披露できるステータスのない私が行き着いた先は中心市街に林立するビル街から川をひとつ超えた、錆の走る工場群だった。
周りよりひと足もふた足も遅れをとって、就活で挑んだ大企業の下請けの更に下に位置する印刷会社に就職が決まった頃、友人に営業職を担当していると、声高らかに嘘をついた。本当に思いがけずに出た言葉だったが、さまざまな形で歓迎を受けてしまった先に訂正という選択肢などなかった。無意識のうちの見栄だと思うと情けない上、身体中を這う汗を流してスーツに袖を通すのは正直面倒だ。

入社時の挨拶で仏のような顔をしていた人間たちが、大型機械を前にするなりくるりと表情を変える。それもそのはず、圧倒的な人員不足の状態で操業し続けているからである。受注数にかかる人員や時間、すべてを考えてもすべてが足りていないのは研修期間に培った知識だ。七日間の擬似的な研修期間を終えると、私もこの会社なりの " 普通 " で扱われるようになった。
人1人くらい楽々飲み込めそうな大きな機械、それから発せられる無機質な音がメトロノームのように庫内にこだまする。混合インクの独特な香りは、一度鼻に引っ掛けてしまうと寝床まで付き纏う。駆動する機械が熱を発するおかげで、ほぼ年間を通して庫内は暖まる。冬は有難く感じる反面、夏は想像を絶する暑さが待ち受けていた。おまけに立ち仕事であるとなると、身体中のエネルギーは午前の数時間と持たない。
身体が着いていけなかった。" 住めば都 " という耳障りのいいことわざがあるが、職員の多くが年配者であることからしても、脱落者は山のようにいたに違いない。その都度廃棄すればいいものを、私物を置くロッカーのネームプレートには知らない苗字の用紙が層を作っている。調子のいいことわざが通用する場所は部屋の隅にさえ見つからないのだった。

そんな場所から命からがら逃げ出してしばらく時間が経っても、3日に1回くらいの頻度で当時のことを夢に見る。轟轟と音を立てる機械が人一人いない空間の中で淡々と動き続けていて、真っ黒に塗り潰された用紙が次々と出てくる。その枚数に際限はなく、泥で汚れた床面に無秩序にばら蒔いているというものだった。半年経った今では徐々にその頻度は減ってきているものの、全快という状態とまではいかないらしい。ただ、眠りの浅い生活からは抜け出せていることは身体がどことなく物語っている。働き詰めであったあの頃、一度としてぐっすりと眠れたことなどなかったというのに、ひと月の間にどこまでも眠れる身体になった。ヤケになってアルコールを過剰に喰らう、ギャンブルに金を捧げる、全てを捨てて旅をかける、何らかの形で皆己を傷つけるというのはよくあることだが、私はアルコールに弱く、ゲームのルールを覚えることも苦手だった。更には旅行へ出掛けるとなると旅先の絶景よりも往復の交通費の方が気になってしまうような性格だから、内に貯めたものを発散する術が見つからなかった。今こうして溶けるように眠ることも意図的などのではなく、気が付くと地に伏して時間を空費しているだけ。眠りに捧げた時間を無駄に思っているし、非常に不本意な体質になってしまった。不眠症を引っ提げた時期は常時怠さが付きまとい、頭痛が前触れもなく襲ってくる副作用に悩まされていたが、それは今も変わらず、過眠した翌日にも同様の症状が現れる。旧約聖書に拠ればヤハウェが最初の人間(アダムとイブ)を作り出したというが、そうした段階を踏む前に、もう少し上手くやってくれなかったのかと悪態をつきたくなる。

眠りは前日の記憶を整理する、と言っていたのは中学校かもしくは、高校の教員だったと思うが、長い眠りはこれに該当してくれないと見えて、次の朝を迎えても前の記憶が不鮮明なものになる。何を食べたかとか、いつ歯を磨いたのかなど、一日に決まったパターンで構成される生活様式に関する記憶が著しく遠くなる。別段その中に特別なことは一つとしてない。忘れてしまったとて困らないものばかりだ。よく考えながら思うこと、それは私自身が、たった数時間の眠りで消えてしまうような生活しか出来ていないのかもしれない、ということ。

ふたつのゴミ袋を気持ち程度、玄関戸口の方に寄せてみる。トイレに至るまでの道が開通し、わざわざ大股で歩行する必要も無くなる。今度は外に出ることが困難になってしまうと思うが、幸い冷蔵庫の中身は十分に充填されている。あと1週間を見積もると厳しいが、これだけの食べ物があれば、3日、いや4日くらいなら退屈せずに過ごせるだろう。

どこへ行く訳でもないのに、毎朝顔を洗うことに意味はあるのだろうかと思っていたが、社会との分断を果たしてからようやくそれらしい答えを見つけた。それは、起きた時間が昼であれ、夜であれ、" 自分自身が起きた " という点呼を体内に伝える為だ。冷水に顔を一瞬でも浸すと、頭から爪先に掛けてビリビリと電流が走るような感覚を覚える。生活のスターターは間違いなく、毎朝の洗顔に違いない。温水はあまりにも眠気を誘うから、顔を洗うなら冷水と相場は決まっている。その日の気分で、洗顔にかける時間には大きなバラツキがあるが今日は何となく、長い時間をかけつつ入念に顔を洗った。耳元、顎の先、髪の生え際まで、隅々水が行き渡るように何度も手のひらを往復させる。秋口に入ってから極端に水が冷えてきており、これがなかなかに気持ちがいい。たった今顔を拭いたタオルで、洗面台に散った飛沫を拭う。「鏡は綺麗にしておいてね」という言葉が脳裏を過ぎって、またこちらも入念に、薄靄のかかる部分を丁寧に拭いた。

朝食を摂ろうと冷蔵庫を開ける。六枚切りの食パンを一枚取り出してトースターに乗せた。摘みを捻るとヒーター管が紅潮する毎に、キッチンの中に小麦粉が焼けるいい匂いが広がる。トーストの付け合せにベーコンエッグも足さねばならない。使いかけのパックベーコンと卵をひょいひょいと取り出して片手鍋を探したが見つからない。ガス台の方を見るともう既に、片手鍋が出しっぱなしになっている。中を覗いて、思わず後ずさりしてしまう。なんと昨夜作ったらしい肉じゃがが蓋もされずにそのままになっていた。作るだけ作っておいて、食べもせずに眠ったのか。久方ぶりに感じた気持ちのいい朝も、これでは台無しだった。片手鍋の他にも加熱用調理器具に大きな両手鍋があるにはあるのだが、そこまでしてベーコンエッグを作る気持ちにはとてもじゃないがなれない。鍋中に綺麗に収まった肉じゃがを見つめながら溜息をつくタイミングで、トースターが終了音を響かせる。外に出されたベーコンと卵を冷蔵庫に仕舞う代わりに、古いバターへ持ち替えた。

冷たいままの肉じゃがをひとつまみして口に入れる。味は悪くないのだが、圧倒的に何かが足りなかった。久しく手の込んだ料理を作っていなかったから忘れていたことだけれど、自分で作る料理はレシピ通りに作ってみたとしても何かが足らない味がした。これは昼かもしくは夜に食べるとする。

トーストをかじる。四隅の一角を持ちながら、対角線上に食べ進めるのが癖になっている。溶けきらずにパンの上で踊るバターの塊はひんやりと冷たく、熱を持った食パンとの相性は堪らなく良い。舌で感じたふたつの温度を、口で転がしたのちに鼻へと送る。古いバター特有の匂い、これまで冷蔵庫を出入りしてきたさまざまな食品の匂いを吸収した末、沸き立つような香りは感じられなくなっている。バターがべったりとついたゾーンを超えてしまえば、その後に齧る部分は、言うなればゆるやかに余る退屈そのものだ。ブラックコーヒーやプレーンヨーグルト、何もつけないパンを推す人が居るが、そんなもの味が付いていた方がいいに決まっている。無味乾燥を愛する人々のことを、心のどこかで嘘吐きだと思っている。文字通り、余りを口に無理やり押し込んだ。

よろよろと窓に近づいて、中途半端に開いていたカーテンを全開にする。ベランダに干した洗濯物はまだまだ湿度を含んでいて、取り込むのはまだまだ先になりそうだ。
6階建ての一室から、ひと握りの住宅地と畳敷きのように拡がる田園風景を望む。家屋の屋根に設置された太陽光パネルと夜露を纏った稲穂が焔のように照り輝いていて、まるで夕方のような景色に驚いた。見慣れた景色ではあるものの、季節の移ろいが醸す新たな表情を見ると不思議な気持ちになる。
次の回収のタイミングは来週の月曜だ。今日は金曜日だから、あと二度眠る必要がある。その間ずっと記憶に留めておかねばならないが、混濁した意識の中過ごしている限りは信用できそうにない。しばらく考えて、クローゼットの中から油性ペンを取り出しながら左手首に 「ゴミ収集 月曜日」と書き付ける。呆然と部屋の中身を見つめる。敷布団と折りたたみテーブルが私の唯一の居住区で、それらは東側に固まっている。対面の西側にはぽっかりと空間があって、明るい部屋の中に形成された暗渠みたくなっている。

ふたりで住もうと決めた部屋なのに、ひとりの生活がかれこれ一年も続いている。コンビニに行こう、くらいの勢いで「もう別れよう」と呟いた彼女はこちらが止めるまでもなく、つむじ風のように出ていってしまった。はっきりと答えあぐねたまま出勤し、家に帰ると山のようにあった彼女の私物がそのままそっくり消えていた。一日であれだけの量を運ぶなど、男一人でも難しいはずである。親か、はたまた別の男か友達なのかは分からないが、ふたりきりのこの場所に誰かが踏み入れたことは想像がついた。

一人で住むにはやや手持ち無沙汰な空間だった。きっちりと折半していた家賃をひとりで背負うとなるとなかなかの痛手であることは間違いない。だからといって私も出て行くという選択肢はなかった。少ない給料から家賃を出すこと。いくら厳しいと言えども引っ越しするより安く済むことは明白だし、少なくとも今年に入って払った更新料を無駄にしない為にもここに居る必要がある。
但し、無策な訳では決して無い。ここから旅立った時のことは、定期的に考えるようにしている。しかしどうしても行く場所が思い当たらない。そもそもこの地に住むことを決めたのは、互いの職場、実家からほど近いというのが理由だった。同棲を決断したタイミングも極めて中途半端な時期である上に周辺に建ち並ぶのは戸建てが殆どで、集合住宅は殆ど満杯に近くここへ来るまでに随分と時間を要したものだ。この場所に居る意味、縁であった彼女も居なくなり仕事も辞めてしまった今、何処へ飛び立つにも困らないのであるが、一度住んだ場所からすんなり離れるようなこともしたくない。根を下ろす場所も慎重に決めたいと思う。
オープンキッチン式。安定したカウンターがそこにあって、賃貸と言えども閉塞感のない明るい部屋。黄金色の間接照明があって、笑いの絶えない、寂しさなんて何処を探しても見つからない、そんな住処を事ある事に想像する。定職に付いていて、それなりに貯蓄もあることを前提として。

今の部屋はそんな夢想から遠く離れたような出で立ちだった。無趣味な私だから、最低限の家具や家電を除いて私物らしいものも殆どないとなると、部屋はずっとからっぽで尚且つ無駄に広いままである。何かにつけてころころ気を変える彼女のことだから、いつかきっと、ふらりと帰ってくると信じていた時期もあった。ただそれは相手が別れに後悔していればの話、でしかない。彼女と別れてからすぐのこと、156センチという小柄な身長よりも遥かに高い影が写ったSNSの投稿によって、その期待も一気に霧散した。死んでやろうかと考えたことさえある。僅かながら人生の一部を共にした人間の不在を知って、絶え間ない絶望を感じて欲しかった。しかしもう既に遠く離れた場所に居る彼女には通じるわけがあるまいし、仮に伝わったとしても、新たな幸せを掴んでいる彼女には何の障害にもならない筈だと思うと、悔しくて堪らなかった。

「残りの荷物はどうする」とメッセージを送ったのは別れてから2週間後のこと。返信に至るまでの間隔は短くて、らしさは健在だった。出会った頃より、どんなに些細な連絡につけても早くに返事をしてくれる人で、そこに愛らしさを感じたことをよく覚えている。
" ここにお願いします " とだけ書かれたメッセージ。知らない街のコンビニの住所は、アルファベットの羅列に変換されている。直接渡すか、彼女の自宅に送ることだけを考えていたから、たった9文字で区切られたメッセージを読み返しながら途方に暮れた。はっきりと伝えられてはいないものの、そこからは明確な拒絶が読み取れる。生来恋愛経験の少ない私でもそんなことはよく分かった。" もう一度会う気持ちはありません " という、彼女なりの意訳みたいなものだろう。

綺麗好きな彼女の、その荷物を積めるとなるとそこいらにあるダンボールで包むことは考えられず、ホームセンターへ新品の箱を買いに出掛けた。クラフト色の在り来りな箱はどんなステッチや模様で施されていても、事務的に感じてしまう。悩んだ末に桃色のポップな箱を手に取ることにする。レジ前には花火のセットが並んでいて、傍らには「夏といえば!」と書かれた掴みどころのない、のぼり旗がゆらゆらと揺れている。冬も凄みを見せていた12月。季節外れの線香花火を片手に " この人と暮らしたい " と考えた初めての感覚が過ぎる。店内に立ち込める冷房の空気が、レジ近くで賑わう色とりどりのポップな文字が、私を2年前へと連れ戻す。家族連れらしき人達が、花火を手に取りながら呟く「庭でできるかな」という優しい声が聞こえたところで我に返る。気づいた頃には無人レジにて会計を済ませていた。

別れのための荷物を買いに行くだけでは、納得がいかなかった為にペットコーナーに足を運んだ。ラックの上にはフェレット、チンチラ、ハムスター、リスなどがケージの中で眠っている。犬猫を始めとした小動物を好き好んで眺めていた彼女の気持ちを知りたかった。時折斜向かいのオウムが大きな声で鳴くものだから、分かりやすく驚きつつ、生活を共にする姿を想像してみる。
リスは抜群の運動能力を持っているようで、ケージの中を華麗に動き回ってみせる。その予測不能な動きは、万が一逃げ出しでもしたら…という不安を伴うからパス。上段で絶えず動く快活なリスに比べて、下段に位置するフェレットは私が眺めている間、ぐっすりと眠っていた。値札上のポップアップを読むと " フェレットは本来夜行性であり、一日のうちの70%程度を睡眠に費やしている " とある。その言葉通り、ゲージに設置されたドーム状の寝床の中で幾匹かのフェレットがすし詰めになって眠っていた。あまり動き回られるのも快く思わないが、だからといってずっと動かずに居られるのはまたそれも違う気がしてしまう。迎え入れてから大半の時間を眠った状態で過ごすというなら、飼っている意味すら感じなくなってしまう気がする。あまりに身勝手な理由だとは思う。そんなわがままが地続きに、少しずつ見るべき動物が絞られてくる。視点が目の高さのところに置いてあるハムスターに留まったという時、
「ハムスター、良いっすよね」
声のする方を向くと、いつの間にか店員がびっちりと横にくっ付いていた。呆気に取られている私に目もくれず、言葉を続ける。
「何かお探しっすか?」
今にも肩につきそうな髪の毛は、茶髪とも金髪とも言い難い色をしている。さほど興味が向いていないとは言え、動物達を " 何か " と称するのは大いに気になった。その風貌、言葉選びから考えても何だかアパレルショップに居てもおかしくない。暫し無言をさらうと、痺れを切らして返事をしたのは私の方だった。こういう状況の無言をかなり苦手としていた。

「たまに動く動物っています?」

とても珍妙な質問であることも、動物を " 何か " と言いくさる店員とさほど変わらない程度の言葉であることも自覚せざるを得ない。言い訳がましいが、冗談のつもりだった。ご丁寧にも名前に 動 という文字が入っているのだから、ナマケモノでもあるまいし、そんな生き物が居るわけが無い。
すると店員は即座に「いるっすね〜」と言いながら慣れた手つきでアクリルケージを持ち上げる。ネームプレートには小さい字で " 店長 " と書かれている。差し出した指先に、フェルト作りのような動物が自ら乗るのが見えた。客に向かってぶっきらぼうな話し方をする割にそこまで失礼に聞こえない。そこに躊躇なく縋り付く動物の姿と来ると、そこまで悪い人間でもないように見えるのが不思議だった。歳もいくつも変わらなそうだが、店長をやっているのだから、動物の扱い以上の技も持ち合わせているに違いない。

ロボフスキー、ロボロフスキーっすね、ロボロスキー、" フ "抜けてるっすね、という茶番のようなやり取りをしてから、生態について事細かに教えてくれた。私の知っているハムスターと違ってふた周りほど小柄で、臆病な性格から人間にべったりということもない。だから余計な手間も要さず、ただ眺めるくらいが丁度いい、とのこと。進められるがままに手のひらに乗せると、プルプルと小刻みに震えるのが気になったがそれも小さい身体を必死に動かす為のものだと聞かせてくれた。ハムスターなんてただのネズミくらいにしか思っていなかったから、少し見え方に変化があった。

自宅へ向かう道すがら、柔軟剤を切らしていたことを思い出してドラッグストアにて柔軟剤を買った。詰め替え用は在庫がないというので、他店舗へ向かうことも考えたが左半身の自由が効かない状態では来た道を戻る気になれない。黙ってボトルタイプの柔軟剤を選んだ。期間限定で内容量が増量しているらしいから、文句は無い。ここにトイレットペーパーを買い足すと、右半身も拘束されて難波歩きのような状態で自宅へ戻った。何でもかんでも一度で済ませたいという性格が災いする。3つものを運んでくれ、と言われたならば3つまとめて運ばないことには納得がいかない。こんな時には休むのが得策だと思うが、頭上では33℃の燃えるような炎天が続いている。日陰を必死に求めるよりも、すんなり家路に着くことを選んだ。

自宅へ戻るなり、彼女のための荷造りを開始した。といっても彼女が家を出る時に凡そのものは持っていったから、ここに詰めるものの殆どが、私が持っていたくないものばかりだった。大して話もしないまま、身勝手に出ていった彼女にこれまでの思い出を押し付けたって、バチは当たらないはずである。広告禁止という貼り紙など尽く無視される形で詰め込まれたビラがここに来て初めて役に立つ。彼女専用のマグカップ、歯ブラシ、誕生日に私が貰ったものだけれどいつの間にか彼女専用になっていたヘアオイル。財布の小銭を掻き集め、当たりが出るまで回したガチャガチャの小物類。ビラを丸めるなり引き伸ばすなりしながら、緩衝材として詰め込みつつ、ひたすらに荷物を詰め込む。江ノ島をバックにふたり肩を並べた写真の入った額も、彼女が買ったものだった。木枠に嵌められた貝殻の装飾が外れないように、こちらは3重にビラで包む。当然、中の写真はしっかりと取り除いて、クローゼットに締まった。
箱を完全に閉じて、空いてしまうことのないようにしっかりと封をする。二度と開かないこの箱は、二度と戻れない思い出だ。別に、納得している訳でもない。

荷造りを終えたら今度は、アクリルケージを組み立てた。ネジ止め式の水入れと回し車を取り付けて、ウッドチップと綿を敷き詰める。おまかせで付けてもらったシェルターも忘れずに設置する。シェルターと餌皿がセットになっているタイプらしく、向日葵の種の形をしていた。箱の中のハムスターをケージの中へと離した。店員が話していた通り、こちらの指には見向きもせずにシェルターの中へ潜り込むと、頻りに頭を擦っている。
気が付いたら購入していた。販売契約書にも漏れなく記入をしてきたから、記憶がないということはない。店長の販売トークが高等だったことは否定できないが、それ以上に自分自身の中に突き動かされるような衝動があった。生まれて初めて、人間以外の生き物に愛らしさを感じた瞬間だった。人間は25歳前後を皮切りに思考が大きく変わるという。こうした気変わりも、その手の話に当てはまるものなのかもしれない。

ロボロフスキー、小一時間ばかりの店内滞在の中で何度もその名を復唱した。流石にもう呼び慣れてしまって、よく口が回る。
ペットを迎えたなら、名前をつけなければならない。あまりに馴染みのない経験から、ネットの力を利用して " ハムスター名前ランキング " なるものを検索してみる。某アニメの主人公の名前であるとか、色彩的な特徴を単に当てはめただけの名前は名前というより記号に近しく感じて、どれもピンとこなかった。時計を眺めると、もうすぐ12時になろうとしている。ひとまず昼食を摂ることにした。

肉じゃがを温め直す間、白米を研ぎ、炊飯されるのを待つ間、テレビのワイドショーを眺めつつ、昼食を摂る間。ロボロフスキーが必死に回し車を回していた。部屋のスペースをあまり取らないし、尚且つ大きな声で鳴いたりもしない。寿命はもって2、3年というが、できる限り長く生活を共にしたいと思う。彼女といた場所に横長のデスクを広げることで、これまでの生活を払拭しようとは言わないまでも、塗り替えるくらいのことはできる気がした。やっと決まった名前をケージの中に聞こえるくらいのボリュームで呼ぶ。
「ハナちゃん」
出ていった彼女の名前。時が流れてやがて忘れることになろうとも、彼女を彼女として認識出来なくなったとしても、これなら心ゆくまで名前を呼び続けることができる。もう一度ケージに近付いて、名前を呼んでみると、回し車の回転が止まった。呼吸に合わせてヒクヒクと揺れる小さな鼻は肯定であるのか、それとも否定であるのかよく分からない。ここが相応しい場所であると感じているかどうかも分かりはしない。あらゆる生き物たちが、迷いに迷って生きている。やがて私たちは思う方へと足を向ける。身勝手に出ていった彼女を非難する者がいるとして、彼らに「ペットに彼女の名前をつけた」なんて言ったら打って変わって今度はその矛先が私に向くかもしれない。ワイドショーにて、" 成功の秘訣 " なんていう特番が組まれている。秘訣なんてものは生きている人の数だけあるもので、なんでも一括りにすれば良いってもんじゃないよと言いたくなる。ふたつのプロペラを持った自衛隊機が南向きの窓の前を通過して、テレビ画面から窓の外へ、思わず顔が向く。ここに住む人々も今だけは皆揃って南を向いているのかもしれない。





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