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vol.86モラハラ夫編【病魔ふたたび】我慢発うつ病行き〜回想録のような備忘録〜


小説(フィクション)⤵️


👓点滴

娘4年生、長男2年生、次男2才のある朝のこと、娘が起きないので長男だけを小学校に行かせました
娘をかかりつけの小児科に連れて行くと「恐らく風邪でしょう」と言われ点滴を受けました。
風邪の割りには余りにぐったりとしているので「幼稚園時代に脳内出血の経験があるのですが関係ないですか」と伺いました
「その心配はないでしょう」ということで帰宅しました 
このとき娘は未だ辛うじて歩けていました
夕方になっても様子が変わらず、心なしか声かけに対する反応が鈍くなっているような気がしました
帰宅した夫Hと相談し隣市の市立病院の救急外来に連れて行きました
既に意識が朦朧として歩ける状態ではありませんでした


👓2度目の脳内出血

処置室のベッドで2回嘔吐し、MRIで脳内出血と判明しました
4年前と同じ部位です
再発の可能性は常人と同じと言われたにも関わらずです
あっという間に昏睡状態に陥り「意識が戻れば儲けものくらいの厳しい状態」と言われました
日中に小児科ではなく直接病院に連れて来ていたら、こんなことにはならなかったのでしょうか
悔やんでも後の祭りです


👓入院 

1度目と同じように、脳室に溜まった髄液を排出するよう頭からはドレン、口からは気管挿管、鎖骨にはIVH、腕には点滴、尿管にはバルンカテーテル、胸に心電図、手指にはパルスオキシメーター装着です
Hは会社から出張を免除してもらって夜の付き添いを、昼間は仕事を辞めていた妹が私に協力してくれました
1度目と違うのは、小学校に通っている長男を迎えに行かなければならないことと幼い次男が居ることです

👓長男

幼い頃から好奇心が強くて落ち着きがなく反面、過集中な長男です
震災前の西宮市の小学校の担任は「個性的で、思いがけない面白いことをする楽しい子」と言って下さいました
転入した小学校のベテラン担任からは一転「運動場で体育をしていても1人で木に登ったりして協調性がなく言うことをきかない
育て方のせいではないか」と言われました
木に何か興味を惹かれたのではないかと思いましたが、真面目な先生からは「はみ出している子ども」と決めつけられてしまいました
後日、仲良くなった用務員さんから、校庭の木から収獲した大きな柘榴をもらって来たり、授業以外ではそれなりに楽しく可愛がられてもいるようでした
友達もいるし虐められている様子もないけれど、何らかの配慮が必要な子どもなのかも知れないと、漠然と感じてはいました

👓ドーナツとコーヒー

Hと交代の為に病室へ行くと「●●先生が朝食にって」とドーナツとコーヒーを見せてきました
最初に診て下さった小児科医が見立て違いを気にされ、退院迄毎朝(ご自身の診療時間前に)届け続けて下さいました
Hは私と交代して仕事に行き、夜にまた病院に来て泊まります(熟睡ですが)
会社が休みの週末には、長男と次男を連れて映画や遊びに出掛けます
2人を連れ出してくれるのは有り難かったのですが「お寿司食べたよ」「ラーメン食べに行ったよ」等と息子から聞かされると、病室で出来合いの冷たい物しか食べていない私は微妙な気分になります
私には週末であっても代わってくれる人はなく、病室から出られませんから

👓頷く

意識のない娘の体をマッサージし、毎日毎日話しかけていました
妹と2人で付き添っているときでした
「ねえ由美(仮名)、おうどん食べたい?食べたかったらうんって言ってみて」とその日も話しかけてみました
気のせいでしょうか、頭が動いたような気がしました
妹にも見てもらってもう一度同じことを言ってみました
「動いた、動いた、きっと聞こえてるよ」と妹も興奮気味です
それ以上の芳しい反応はありませんでしたが看護師さんにも報告し、話しかけてくれるようお願いしました

👓意識覚醒

気管挿管しているので声は出せませんが耳は聞こえているようです
日に日に反応が良くなり、医師も驚きました
呼吸が安定し気管挿管が抜け、酸素マスクに変わりました
時々目も開けるようになりました
視線は宙を彷徨ってばかりで交わりませんが、声の方に顔を向けるようになりました
次第に目を開ける回数が増え、目が合うこともありました 

👓欲

「意識が戻れば儲けもの」と医師から言われていた当初は、命が助かりさえすれば、意識さえ戻ればと思っていましたが、次第に欲が出てきました
喋れるようになって欲しい
食べられるようになって欲しい
起き上がれるようになって欲しい
歩けるようになって欲しい
家に帰れるようになって欲しい
学校に行けるようになって欲しい
出血が排出、吸収され、VPシャント(脳から腹腔までカテーテルを通し、脳を圧迫している髄液を流す)手術を受けるとより一層欲が出ました

👓マイノリティ

意識は戻りましたが、髄液の流量(耳後ろに埋め込まれたダイヤルで調整)が合わないのか嘔吐を繰り返します
体調が落ち着くと4人部屋に移りました
そのうちの1人がデイビッド(仮名)です
母親の生まれ育ちは香港でカナダ国籍、父親は日本人でした
母親が研究者として留学して来た日本の大学で父親と知り合ったというインテリカップルです
Hはマイノリティに対しての偏見が強いのです
小学生のときに被差別部落の子がいたとか、LGBTQ(当時この言葉は未だありませんでした)とか、黒人や東南アジア系や中国系や韓国系の外国人のことを露骨に見下していました
自分は一体どれほど偉いのでしょう
デイビッドの母親の悪口?をコソコソと私に言ってくるのは気分の悪いことでした

👓院内学級

とろとろと眠ってしまう時間はあるものの疎通できるほどに意識がはっきりとし、次第に声も出せるようになりました
少しでもリハビリになることをと院内学級の手続きをしました
隣市ですので一時的な転校となります
とても優しい先生が病室まで来て下さいましたが、何故か勉強が始まると娘は嘔気がしたり「頭が痛い」と泣き出したりして途中で授業を切り上げることになります
Hはシールプリンターを買って来て娘にプレゼントしました
授業の度に「頭が痛い」と言ってはシールプリンターで遊ぶようになりました
サプライズプレゼントが好きなHと勉強が嫌な娘の利害が一致したのです
Hには「娘に気に入られる自分」に酔いしれる前に、院内学級に協力してもらいたかったです


👓退院と復学

ゆっくりとした回復でしたが今回は感染症で命の危険に晒されることもなく、何とか歩行できるようになって退院しました
再発が心配で医師に確認すると「今までに一度も脳内出血になったことがない人の身に、初めて起こるのと同じ確立。つまり極めて低い」と言われました
手は左右殆ど差がないくらいに使えるようになりました
左脚が細くやや引きずっていますが、小学校でも特に不便を感じることなく馴染んで行くことができました
より一層小さくて痩せっぽちで運動が苦手な女の子になっていました
友達に恵まれ学校行事は勿論のこと、5年生の林間学校、6年生の修学旅行にも問題なく参加できました


👓 のび太•ジャイアン症候群

長男が4年生の年、日本で初めてADHDが紹介されました
性格のせいではなく育て方のせいでもない何かだと思ってはいましたが、司馬理英子さんが著書でのび太•ジャイアン症候群と書かれていたのが腑に落ちました
Hは幼児の次男を無条件に可愛がっていました 
病後の長女にも気を使っていましたが、長男に対しては「言うことをきかない奴」という扱いです
長男の性格のせいではなく、脳への指令が上手く行かないだけなのだと説明しても解ってもらえません
かと言って本を読もうともしません
長男は我が子でありながら、いうことをきかず落ち着きがなく訳の解らないどうしようもない子という烙印をHの中で押されてしまいました

※「のび太•ジャイアン症候群」 
司馬理英子著 主婦の友社

vol.87につづく


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