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関東大震災と東京大空襲を伝える両国の「横網町公園」に行ってきました

防災について勉強していると、たびたび見かける両国の「被服廠跡(ひふくしょうあと)」という場所。両国国技館や江戸東京博物館の北側にあって、現在は「都立横網町公園」という公園になっています。

被服廠跡とは

「被服廠」というのは、軍服を製造していた大日本帝国陸軍の組織のひとつです。両国から赤羽への移転に向けて1922年に東京市が跡地を買収して、公園の造成を進めていたなかで、1923年9月1日に関東大震災が起こります。

多くの人々が被服廠跡に逃げ込むも、荷車などに載せて持ち込んだ家財道具に飛び火してしまい、震災全体の犠牲者の約1/3にも達する38,000人以上もの死者が出たそうです。

このとき発生した竜巻のような「火災旋風」では、東京都墨田区から約15km離れた千葉県市川市まで人が吹っ飛んだと言われています。(ちなみにこの火災旋風というものは、いまだに発生の条件や詳しいメカニズムはわかっていないそうです)

現在、この「被服廠跡」には「東京都復興記念館」「東京都慰霊堂」が建てられています。

東京都復興記念館へ

1931年建築、築地本願寺や大倉集古館と同じ伊東忠太設計

1階は、関東大震災の発生から復興まで、焼けて溶けてしまった時計や自転車、生々しく凄惨な写真などが展示されていました。図表や映像コーナーもあって分かりやすく、ここまで大きな被災物の数々は見たことがなかったので衝撃的な展示でした。

2階は、関東大震災を描いた絵画や模型、東京大空襲・戦災復興に関する資料が展示されていました。かなり大型の絵画で轟音や叫び声が聞こえてきそうなほど迫力がありました。

どれも展示パネルのキャプションが読みやすく、あとでまた読み返したいと思ったら、無料で展示パネルの冊子を配布していました。

関東大震災の猛火と熱風で溶解した丸善ビルの鉄柱

屋外にもたくさんの震災および戦災の遺物が展示されていて、博物館内や資料で見るより一層リアルに感じました。

東京都慰霊堂へ

1930年建築、東京都復興記念館と同じく同じ伊東忠太設計

関東大震災による遭難死者約58,000人の遺骨を納めるために建てられ、東京大空襲などによる殉難者の遺骨もあわせて、現在は約163,000体の遺骨が安置されています。

毎年関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日の年2回、慰霊大法要が開催されているそうです。

 樹木には、町並みを美しくする働きのほかに、火災による火の粉や、熱風から人を守る働きがあります。

 大正12年9月1日に発生した関東大震災でも大火で多くの人々が焼死しました。当時は、防災に対する緑の考え方や公園の整備が遅れていたためでした。

 同じ都内でも上野公園や日比谷公園など樹木の多い大規模公園などは、防災・避難場所として大きな効果がありました。

 その時の教えが、今日の「緑豊かな街づくり」への大きな力になっています。

普段は子どもたちが遊んだりしている公園も、いざという時には近隣住民たちを守る大切な場所になるのですね。

子どもの頃には本の読み聞かせがあったり、修学旅行で戦災遺構を見学したり、戦争に触れる機会が定期的にありましたが、これだけの資料を見るのは久しぶりで、改めて戦争の愚かさや防災の大切さが身に染みました。

また大人になってから「大震災」や「コロナ禍」という未曾有の危機を体験したこともあって、すこしだけ関東大震災や第二次世界大戦の見え方が変わった気がします。

どれも入場無料の施設とは思えないほどコンテンツが充実していたので、ぜひ興味のある方は訪れてみてください!

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