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42歳にして、初めて運転免許を取得しました-----大都会の自動車教習所の現実

若者の車離れが進んでいると言われる昨今、若者ではない私もその一人だった。正確に言えば、車離れしているのは若者ではなくて、都会の住人全般なのだろう。駐車場代は高いし、停める場所はないし、維持費も高いし、そもそもバスも地下鉄もタクシーもあるのに、どうしてわざわざ車を買わなきゃいけないの、と思う人が多い。今や車を持つことは、都市部の人間にとっては、個人の趣味みたいなものなのだろう。

若者が集まる教習所に、42歳の私が行ったら「浮く」だろうなと思っていたら、いざ入学してみると、そうではなかった。意外と、中年女性層が多い。聞けば、みなさん、親の介護のために初めて運転することに決めたという。

私もその一人だった。

母が倒れてから、病院へはこれまでずっと市営バスで付き添ってきた。というのも、都会の病院はどこも駐車場がないところが多くて、「公共交通機関でお越しください」とホームページにも書いてある。しかし、母の様態が芳しくなくなって、大病院に連れて行くようになってから、そこに駐車場があったのだ!

そして、教習所に行くと、私と同じような年齢の、私と似たような事情を抱えた女たちが、たくさんいた。ああ、私はひとりじゃないんだな、と初めて思えた。

面白いことに、教習所には、20代前後の若者層、中年層、高齢者と、それぞれの年齢層がくっきり3分の1ずつ存在していた。

高齢者というのは、70歳以上の人になると「高齢者教習」というのが義務づけられていて、一日限りの教習を受けるために、その日だけ教習所に来ている人たちのことだ。

そんな高齢者の数はとても多くて、日によっては教習所のロビーが、若者・中年を押しのけて、お年寄りたちで占められることもあった。

まるでバブルの残骸を見ているようだった。お年寄りたちが中年だった時代は、みんながこぞって免許を取り、車を買っていた。私の母も30歳ちょうどの時に免許を取った。当時の日本では、人より良い車を持つことがステータスの一つであり、多くの人があらゆるステータスを追い求めていた。

しかし今は、物を持たないことがカッコイイ生き方であり、ミニマリストなどという人々も生まれて、昔の時代とは世の価値観がアップサイド・ダウンしている。

教習所にも、そんな世相が表れていた。若い学生さんたちの経済感覚が、とにかくしまっているのだ。

教習所には、お菓子や食べ物も買える自動販売機があちこちにあったが、買っているのは高齢者と、一部の中年層だけで、若い人たちは、ほぼ誰も自動販売機に寄りつかない。みんな飲み物を入れたポットとお弁当を持参していて、ペットボトルの一本すら買わない。

仲良くなった何人かの若者と話してみると、彼らは免許を取っても、車を持つつもりはまったくないと言った。就職の際の身分証明書のために免許が必要だから、ここに来たと言う。私が話した人たちだけが、たまたまそうだったわけでもなさそうだ。今、都会では、免許はIDのためだけ、と考える人が多いという話は、この街でもよく聞く。

私からすれば、若いのにみんなしっかりしていて偉いなと、思う。しかし、この若者の経済感覚が、教習所を困らせていたのだった。

「最近の学生さんはさ、早く卒業してくれないんだよね」

教習所の事務員たちが、そうぼやいていた。好奇心旺盛な私は、事務員さんたちとも仲良くなり、ちょっと話を伺った。

聞けば、今の若者は、さっさと免許を取ったらモッタイナイと思うそうなのだ。

30万円も入学金を払ったのに、たった2か月で卒業したら、なんだか損した気分になるという。教習所の規則としては、入学してから9か月以内に免許を取得することが義務付けられている。なので、できるだけ7か月、8か月と、引き伸ばしながら長く学校に通った方が、30万のモトを取ったと考えるそうなのだ。ましてや私のように、運転の必要に迫られているわけじゃない。そう考えるのも無理はないのかもしれない。

私は2か月半の教習所通いの間に、多くの教官たちと仲良くなった。お互い年齢が近かったこともある。世間でよく言われる「怖い教官」がいなかったのは、彼らも若い子に指導する時よりも、同い年か、もしくは年上の私に指導する時の方が遠慮があって、態度や言葉遣いを丁寧にしていたから、かもしれない。廊下やロビーで教官たちとすれ違うと、互いに立ち話に花を咲かせたりするまでなった。

送迎バスの運転手さんとも親しくなった。送迎バスの運転手さんは、ほとんどが引退した元教官たちで、みんな私の父と同じか、少し若いくらいの年齢なので、親子のように会話が弾んだ。彼らの中にも、長年介護を必要としていた義父を看取った人がいて、ますます話が弾んだ。

短い間だったけれど、私は彼らとのふれあいの中で、ちょっとした面白い共通点を発見した。

自動車学校関係者たちは、みんな漠然と、自動運転が普及することを恐れていたのである。

「俺たち、仕事なくなっちゃうよ」

ある時、教官はそう言った。彼は開発研究所で、最新の自動運転車の運転のしかたを習う講習を受けてきたそうだ。そこにはハンドルもなく、ボタンだけがあったという。運転するのは驚くほど簡単で、むしろ私たちは、車が自動で走るのを妨げないようにする、という感覚を身につけないといけないらしい。

「これからはさ、マニュアルかオートマかの選択肢じゃなくて、オートマか自動運転かの二択になるんだろうな。そんな未来が早く来ないでほしいね。自動運転の車が増えたら、もしかして、免許がなくても運転できる法制度に変わっちゃうかもしれないし。そうしたら、俺たちがいる意味なくね?」

教官は嘆いていた。

「テクノロジーはすばらしいって言うけどさ、運転する喜びがなくなっちゃうよね」

そう話したのは、送迎バスの運転手さんだった。

「自動で運転しますって言われてもさ、法定速度の40キロしか出せないポルシェに誰が乗りたいと思うね?」

運転手さんは、高速道路をぶっ飛ばすのが趣味だと打ち明けた。自分は教官を引退したから何を言っても構わないと思ったのか、教官になる人には、じつはスピード狂が多いのだとも、こっそり教えてくれた。

「あのスピード感がたまらないんだよね。それがなくなって、ただポルシェですって言われてもさ、ポルシェ売る方だって困るよね。セールス・ポイントがなくなっちゃうし」

なるほど、と私は頷いて、さらに遠い未来のことに話題を進めた。「自動運転の後は、無人運転になるそうですよ。無人運転のポルシェになったら、もう運転する必要もないですよね。助手席に座っているだけでいいんですから」

「運転できないポルシェなんか、買う価値あるかよ! 今のブランド車はさ、これからますます厳しくなっていくだろうな。無人運転の時代になったら、どんな車も移動するだけの道具になっちまうから、ブランドの意味がなくなるよね。誰も乗っていない無人運転のベンツが、時速30キロで走っててもカッコ良くないじゃん!」

運転手さんは、最後は吐き捨てるような口調になっていた。

これが現場の生の声なのだなと思った。

最新技術の開発が運転の概念を変え、車という物の意味づけを変える。それは遠い未来のSF物語のようだけれど、もしかしたら、意外と早くやってくる現実かもしれない。

2年後の東京オリンピックでは、日本の最新テクノロジーを世界に誇示するために、自動運転のバスで世界のアスリートを競技場に運ぶ予定だという。

しかし、日本は車の開発においては、じつは遅れた国なのだ。昔はナンバーワンだったかもしれないが、今は中国やドイツ、カナダなどの方が遥かに進んでいる。これらの国々では、正確な自動運転ができる電気自動車が、次々と開発と試乗を繰り返されて、SF物語がかなり現実味をおびるところまできているようだ。

やがては、ハンドルもアクセルもブレーキもない車が「普通車」と呼ばれる時代が来るかもしれない。

そう考えると、今の私たちは大きな時代の流れの中で、ちょうど過渡期にいるのかもしれない。

中高年とお年寄りが増えた教習所の雰囲気も、若者が免許を取る動機も、昔とはずいぶん変わったはずだ。やがては私が運転しなくても、母の病院の送迎を無人でやってくれる車ができたらいいなと思うけれど、そんな車が登場する頃には、私たちの車に対する意識も、介護に対する見方も、変わっているかもしれない。そしてその変化は意外と近い将来かもしれないのだ。

10年後、私が52歳になった時、自動車教習所は潰れていて、教官という職業もなくなっているかもしれない。運転免許証という大昔の手形のような代物を手にした私は、その時、十年前に交わした教官や運転手さんたちとの会話を懐かしく思い出すのだろう。

その時に「ああ、昔は良かったな」と私は嘆くのだろうか、それとも「すばらしい時代になって良かったな」と幸せな気持ちに浸っているのだろうか? できれば10年後、私は幸せになっていたい。そして、自動車学校関係者たちには、早く新しい職業を見つけて、新しい時代にスムーズに適応していてほしい。

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