障碍者の持つ癒し効果

ゴールデンウィーク最中の今日、妹が暮らす障碍者施設に足を運び、母の目の病気のことを打ち明けた。来週からママは入院するんだよと何度も言い聞かせてみたが、案の定、妹はにこにこ微笑むばかりで理解していないようだった。

けれど彼女の笑顔を眺めていると、なんだか私の方が励まされる気持ちになってくるから不思議だ。障碍者の持つ癒し効果などと書くと、なんだか上から目線に聞こえるかもしれないが、私たち家族はこれまで彼女の存在に励まされてきたことは確かだ。

もちろん介護は大変だし、昨年母が倒れるまでは妹の世話と介護で私たち家族は何度も挫折しそうになったし、家族仲が悪くなったことも何度もあった。家族のメンバー全員が元気な、いわゆる健常者だけの家族を羨ましいと思ったこともある。

それでも妹の存在に感謝している。うまくは表現できないが、私は妹のいない人生だったら味わえないような、人間の様々な悲しみや喜びや可笑しみを味わってこれたように思うからだ。

こんなふうに書くと、なんだか凡庸な締め括りに聞こえるけれど、でも結局のところはこれなのだと思う。生きるということを人一倍深く味わうことができた。うん、はやり単純な表現になってしまう。

私の母はとても気丈な性格で、前回のnoteにも書いたが、医師から失明すると宣告されてしまった今も、「生活は不便になるけれど、絶望ではない」と言っている。そんな母でも、妹の姿を目で見ることができなくなるのは本当に辛いと言う。

私が子供の頃、妹のおかげで、普通の子供だったら経験しなかったかもしれない嫌な体験をたくさんした。社会が今よりもまだ障碍者に対して理解がなかった時代背景もある。

私が小学生の頃、たいして親しくもないクラスメートがある日突然、家にやってきたことがあった。その子はインターホンを押して母が玄関外に顔を出すなり、

「カワカミさんの妹、見せて」

と言ったのだった。その時に私は、クラスで私の妹のことが皆の間でひそかに話題になっていたことを初めて知った。皆、表立っては口にしないけれど、「あの子の兄弟ってなんか変らしいよ」と噂していたのだろう。当時は今と違って子供の人口が多い時代で、私が通っていたのも全校生徒数が1000人を超えるごく普通の公立小学校で、そこでは兄弟・姉妹が同じ学校に通っているのは当たり前だった。そんな中、私の妹は特殊学級ではなく町はずれの養護学校に母の送迎で通っていたものだから、近所では目立つ存在だったのかもしれない。

「妹、見せて」と出し抜けに言ってきたそのクラスメートに対して、母は怒るでもなく顔色一つ変えずに、家の中に案内した。そしてベッドに横たわる妹の前に連れて行き、「見たか?」と言ったのだった。

「見たよ」とその子は言い。そのまま玄関を出て帰って言った。

私は以来、そのクラスメートのことを嫌いになったが、母は「ああいう子供には、見たいというものを見せてやった方がいいの」と言った。隠すことで、よけいにあらぬ噂が広がるからだと言う。

「障碍者は隠すべき存在じゃないってことを教えてやるのよ」

そう母は私に言った。母の言葉通り、私たち家族は外食でも観光でも妹を連れて行き、驚いたり困ったりした顔で目を逸らする人々の視線をよそに堂々と車椅子を走らせた。

けれど、人生というものはいつか終りが来る。母の病気によって生活が変わってしまったことで、私も生活が変わり、妹は人生が変わった。その変化を受け入れられるだけの強さを培ってこれたのは母のおかげだと思う。

最後に、笑い話がひとつ。

施設で私は妹に「お姉ちゃん、来年には必ず小説家デビューするからね」と話した。もう何度も書いているが「寿司ロールとサーケで乾杯!」のセルフ・パブリッシングに向けて、今はせっせと資金稼ぎに励んでいる。大変だけれどもパートの仕事も増やした。クラウドファンディングもする予定だけれど、いきなりクラファン任せにはしない。多くの人が生きるのに必死な今の時代、クラウドファンディングに丸投げすれば何とかなるだろうとは、思っていない。まずは私自身が資金面での努力をしなければ、応援してくださる方々の共感も得られないと思うからだ。

私の話に妹はまるで受け流すかのように「うんうんうん」と軽く何度も頷いた。明らかにもうその話は聞き飽きた、という態度だった。母の目の病気のことは理解しないのに、私の小説のことは聞き飽きたらしい。

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