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"足りない"は恥だが役に立つ
ああ
もともと私という人間が、どんな風にも、雨にも、嵐にも心動かされないようにできていたならば。
人の過ちをたやすく軽やかに許し、何を言われても優しさと穏やかさを保ちつづけ、
どんな人も受け入れ、
いつも微笑みで包み、
また怒らず、悲しまず、傷つけず、何事もなく、人と和をなして生きていける、
そんな人であったならば。
それがすんなりと自然にできる能力を備えている人であったならば。
それはなんて素晴らしい。
だけど、私はもしそれらを最初から授けられていたとして、
私は一生涯そのままの自分を貫けるのだろうか。
それって持続可能なものでしょうかと、自分に問いかけてみる。
またそんな私は、どれだけ人の痛みを想像しようとするのだろうか。
そういう人は確かにどこかに存在しているかもしれない。
またそのような人間性を保ち、人生を全うする稀有な女神様、仏様のような人はいるのかもしれない。
だけど私がもしそのような得難い才能と呼べる人としての徳を、最初から授けられていたとしたなら、
すぐに油断し、人間として愚かになりさがっていただろう。
だって私は容易に傲慢になる人間だということを、自分でよく知っているから。
たくさん自分の弱さとか、できなさとか、浅ましさとか、一応見てこられたから。
(まだまだ出てくるのでしょうが。見れていたとして、それは全てではないでしょうし。)
そうならないためにも、心を紆余曲折に動かせて、私は生きているんだよ。
私が自分が足りないゆえに、得られたもの。
それは"私は最初からできていたから、わからないわ"って言わないですむこと。
他の人にとってそれはどうかわからないけれど、私にとってはそれは持ててめちゃくちゃ幸運だと思えるようなすごいこと。
私がそのような言葉をもらったとき、さびしさ、自分の劣等感を少なからず感じたことがある。
私が自分がもっと歳を重ね、年若き人と話をするときのことを考えてみる。
私は、どちらかと言えば、"あの人すごいな"より、"あの人でもできるから、私にもできる。私すごいな。"って思ってもらえるような言葉を紡ぎたいと思った。
そして、自分の小ささを知るたびに、人やこの世界の素晴らしさを知る。
だからそんな機会を多く与えられて、私はやっぱりとてもしあわせだと思う。
素晴らしい人になるよりも、人の素晴らしさを讃えていける人になりたい。
自分の至らなさに直面する機会が多いことに感謝したい。
"できている"事柄(結果)よりも、"そうしたいとそこに向けつづける心"を大事にしたい。
こんな私でよかった。
私は足りない方がいい。できていない方がいい。
"足りない自分"が役に立つことがある。
連投すみません。
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(ご負担ない範囲でなんとなく気にしてやってくださいませ。🙇♀️)
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