見出し画像

#39 感性について ~なぜ自分で判断できないのか教えてやんよ~

先日こんな記事を書きました。

ここで、受け手=他人に基準を合わせない重要性について触れました。
そして、自分で物事の良し悪しを判断できない人がいる、という内容も書きました。
なぜ、自分基準で判断することができないのでしょうか。
そのヒントはこちらの記事に書いてあります↓

どうやら私は自分の記事をじゃんじゃんリサイクルするスタイルを覚えてしまった様です笑
これはリミックスとかリワークみたいなものです!胸を張りましょう!

私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。

立花隆

うー辛辣ゥ。
とにかく、立花隆はこう言いました。そしてこのフレーズはとても便利なものなので私は気に入っています。
とりあえず、プロレスのことは今は忘れてください。今回は一切関係ありませんので。
この度注目していただきたいのは、
品性・知性・感性
これらが同時に低レベルにある人云々、の箇所です。
で、なぜ自分基準で判断できないのか、という話でしたよね。
その答えが
品性・知性・感性 が同時に低レベルだから、です。
はい、これで今回の話は終わり。なのですが、もう少しだけお付き合いください。本編を食う勢いの、斬新なコーダに突入しましょう。

品性がないと俗物になります。
俗物が好きなのは富・名声・権威です。
だから「売れているものがスゴイ!」とか「××大学スゴイ!」、あるいは「○○賞受賞作品スゴイ!」とか「ガイジンに認められてる日本スゴイ!」てな具合になるのです。
知性がないと、そもそも考える術を持たないわけですから、自分基準の持ちようがありません。だから当然、判断できない。
そして感性ですが、それは最後の砦のようなものです。
ロジックでは解らなくても、直感が働くことで判断が可能になります。
ここから先は行ってはいけないと野生の勘が告げること、ありませんか?そういう類のものが典型的でしょう。
あるいは美術作品に対して、何だかよくわからんがこれは好きだ、それは厭な感じだ、とかありませんか?
はい、それです。

今書いていて気付いたのですが、全ては感性に依存しているような気がしますね。すいません、今更な感がありますかね。気付いていなかったのは私だけかもしれません。だとしたら滑稽を極めてますね。あらまあ。
品性を生み出すのは感性です。
知性を生み出すのもまた感性です。
品性とは形式的なマナーではありません。
知性とは知識量の多さではありませんし、レトリックの巧みさでもありません。
一見、立派な人に見えても、品性や知性があるとは限りません。
その理由は、それらが感性から生じるものだからではないでしょうか。
知識や経験があっても、アウトプットが残念な感じの人がいるでしょう。
彼らは知識や経験で武装して、立派な人を演じているだけです。そのハッタリで人をちょろまかせることを良く知っています。世の中チョロいんです。彼らにとっては。
人は自分の認知できるものの中でしか生きられません。
自分の見たいものしか見れません。そして多くのものに対して無頓着というか、盲目です。
そうした数多の情報を自動的に選別し、ストックするのは、感性のやることです。そしてその記憶を練り上げるのもまた感性ですね。
その感性は品性を生むでしょう。知性も同様に。
各人の価値観が大きく異なるのは、まさに感性に由来するためではないかと思うのです。

立花のいうように、品性・知性・感性にはレベルがあります。
しかし、感性に乏しい者が品性と知性に優れている場合があるとはどうも私には思えないのです。
それはあくまでも感性が源であり、品性と知性はそこから派生したものだからではないか、と思います。

この内容はまだ時期尚早だったかもしれません。
だけど、出し惜しみせずにさっさと公開しちゃいます。
これは私の日記のようなものですし、全てが大したものではありませんから。
もう少し私の経験値が必要なのかもしれません。とりわけ知性が怪しい感じの人なものですから。いやはやお恥ずかしい。
私は、本記事のようなことを考えるのが好きです。
仮にどんなに瑣末と思われてしまう事柄であっても、自分にとって楽しく、充実した時間が得られることが至高です。これは私にとっての豊かさです。
願わくは、どなたか一人でもいいので、正の作用をもたらせるといいのですが。それは望みすぎでしょうか。私は欲張りですから、ご容赦ください。

さて、そろそろ筆を置きましょう。
全てに幸あれ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?