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#24 私は映画を観れない

私は映画を観れない。観たいと思うことはある。
つまり、観たいのにも関わらず、観れない。ということになる。
私は何故、映画を見ることが出来ないのだろうか。
それは、映画には暴力が多すぎるからだ。
まぁ、もっともこれは映画に限ったことではないだが。

暴力は、つらい。
架空のものであっても、私は影響を受けやすい。(空想は脳に影響を与える。それは空想というよりももうひとつの由緒正しき「現実」ではないのだろうか?)
私は単に臆病なのだと思う。難儀な性格を抱えて生れ落ちたものだ。
暴力は非常に蠱惑的な性質が強い。
それが大きい物語を自走させる動機かはともかく、依存していることは間違いない。

以上のような理由から、小説で言えば、村上龍の「コインロッカーベイビーズ」も好き嫌い以前になんか厭な気分になってしまったことがあった。
だが、小説=活字だと読めてしまう。当たり前かもしれないが、私にとってこれは一つの気付きだった。
それは視覚的要素や音響的要素が、読者に委ねられているからだろう。
映像作品は情報が多すぎる。
そして押しが強い。
その辺が苦手なのだと思う。

それから、心当たりがあるとすれば、共感の問題だろうか。
私は他者に共感(共鳴)し過ぎてしまうきらいがあるように思う。
人の痛みと自分の痛みの境界が融解しているというか、同化しているというか、他者のことを自分のことのように感じてしまうから、放っておけない。
だが、対人恐怖とか後天的に身に付いた事なかれ主義とか、そういったものの要請で他者を放置しているに過ぎない。
そうした要素の矛盾が、自分の中で均衡を保てていない感もある。
私の本性は恐らくお節介だし、ジャンプのヒーロー緑谷出久よろしく、考えるよりも先に体が動いてしまうようなところがある。
そうした傾向は小学生のころに最も顕著であったように思う。
とりわけ動物を救ってやることが多かったと記憶している。対人だと遠慮してしまうようなところもあるが、動物に対してはそれがないから、より直感的・衝動的に動いてしまったのだと思う。
だが、周りには利他的な行動を冷笑するような連中が多かったから、なにかギャップを感じて挫折してしまったのだと思う。多数派に負けたというか。
自分の方が愚かなのか、と本気で疑った。今は当然そんなことは思っていないわけだが。
ステイタスとコスパばかり考えているような連中が実に多かったなぁ。本当に同級生には恵まれなかったと思う。
否、それは正確ではない。きっと私の人を見る目=センスが無かったのだろう。
今思い返すと、面白い奴とか、優しい奴とか、自分にとって快い感じの人が身近に居たように思うからだ。それにも関わらず、それに気付けなかった。というか、気付きながらも無下にしていたような気がする。
私はそういった連中と「だけ」仲良くしていれば正気を保てていたかもしれないし、変な挫折もせずに、捻くれもせずにお節介道を邁進していたのかもしれない。医師にでもなっていたかもしれない。いや、それは流石にないか。私は知的レベルが低いから。
まぁ、過去のことを詮索してとやかくいうのはやめよう。皆、色々事情があるのだろうし、打たれ弱い性格の私はいずれ挫折して捻くれただろうから。叩かれるのは時間の問題だろう。それが少しばかり早かっただけの話。

暴力が多いせいで、映画が観れないという話から、随分と脱線してしまった。脱線もまた私の本性である。
私は静謐で、何の作為も意味も持たない映像が観てみたい。
物語は要らない。というか、人そのものが要らないのかもしれない。
そんな作品があれば教えて頂きたく思う。
もしも、ないのであれば自分で作ろう。
以前の私ならこうは思えなかっただろう。それは元気な証拠なのだ、と悦に浸りながら筆を置く。

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