幻となった東アフリカでのユダヤ人国家~それは神の意志か、それとも人の業なのか~
ここ100年の中東での悲劇を防げたかもしれない計画があったことは、あまり知られていない。
それが幻に終わった20世紀初頭の東アフリカにおけるユダヤ人入植地プラン。もし、東アフリカにユダヤ人国家「イスラエル」が誕生していたら、現代はどういった世界になっていたのだろう。
1. 東アフリカ入植計画が出てくるまでの過程
現代の中東での紛争への回帰不能点(ポイント・オブ・ノー・リターン)をどこに置くかは、様々な考え方があるものの、その1つに現在ではイギリスの三枚舌外交と非難される1915年「フサイン=マクマホン協定」(オスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の独立と、アラブ人のパレスチナでの居住を認める)と、1917年「バルフォア宣言」(パレスチナの地でのユダヤ人の国の建設を支持する)の出来事であるとするなら、それよりも以前となるだろう。
1881年、ロシア皇帝アレクサンドル2世が専制主義に反発するテロによって暗殺されると、後を継いだアレクサンドル3世は、暗殺をユダヤ人の犯行であると決めつけ、反ユダヤ主義の感情からユダヤ人に対する激しい迫害(ポグロム)を開始する。
これによってロシアからの迫害を逃れてアメリカやヨーロッパなどへ移住するユダヤ人が増加する。その数は、30年ほどで200万人にも上ったという(内75%がアメリカと言われている)
そして1903年4月19~21日にロシア帝国内、現在のモルドバの首都キシナウでも、死者49名を含む数百名が重軽傷を負うなどの被害が発生したキシナウポグロム、キシナウの虐殺が発生した。
そのような時代、既に19世紀後半から列強によってアフリカは分割されイギリスは、1895年から現在のケニア・ウガンダの領域を東アフリカ保護領として管理、開発する。
インド洋に面した現ケニアのモンバサ(Mombasa)と、ビクトリア湖に面したキスム(Kisumu)とを結ぶ鉄道(現代ではウガンダ鉄道と呼ばれる)は、1896年から開始し、途中、人食いライオンや疫病などにより2500人近い犠牲者を出したものの、1901年に完成する。
1902年12月、英国植民地長官だったネヴィル・チェンバレンが東アフリカ保護領を訪問し、現地にはヨーロッパからの勤勉な入植者が不足し、鉄道経営の収益が上手くいかないことを知る。
彼は以前、ユダヤ人の入植地について相談を受けていたため、世界中で迫害を受けているユダヤ人をこの地に入植させると思いつき、1903年4~5月、シオニズム運動の指導者テオドール・ヘルツルへ提案を行うことにした。
この計画は、ウガンダスキーム(英領ウガンダ計画)とも呼ばれているが、入植予定地だった場所は、現在のウガンダではなくケニアであり、ナイロビの北西、当時はGuas Ngishu(またはUasin Gishu)と呼ばれていたマウ高原地帯となる。
ほぼ同じエリアの現在地(北西部ケニア)
提案したイギリスには、単にポグロムから救うという人道的な理由だけでなく、以下のような目的があったと考えられる。
(1)ポグロムという迫害を受けてイギリス本国に流れ込むユダヤ人を抑制させることで、政治に影響する雇用環境、イギリスの労働者が失業するのを防ぎたい(なんだか現代にそっくりだ)
(2)500万ポンドを超える莫大な資金で建設した鉄道が収益を生まず赤字であるため、白色人種という扱いでもあったユダヤ人を入植させ、また彼らが持つ資金を投入することで、現地の開拓を進めて、人や物などの輸送量を増加させる必要があった。
2. 理想と現実、東アフリカへと入植すべきか?
提案を受けた人物ヘルツルは、1894年のフランスで起きたドレフュス事件に遭遇し反ユダヤ主義の根強さから、問題の解決には自らの国を建設するしかないと考え1897年よりシオニズム運動を組織。現代ではイスラエル建国の父とも言われる。
同じユダヤ人の金融資本家ロスチャイルドを通じてチェンバレンに会った彼は、キプロスやシナイ半島へのユダヤ人入植計画を提案するが、既に他の人々が住んでいることやイギリスの支配下に無い場所でもあったので現実的ではないと拒否された過去もあった。
1903年4月のキシナウでの虐殺の後、8月にバーゼルで開催された第6回シオニスト会議でヘルツルは、ロシアなどで迫害を受けているユダヤ人の避難場所として東アフリカにユダヤ人を定住させるという提案を行う。
以前から一時的であっても安全に暮らせる場所を求める意見があった。しかし今回の東アフリカ案は、もし実現すれば将来、他の選択肢が選べなくなる可能性もありうる。
そのため、あくまでも旧約聖書にあるカナンの地(現パレスチナ)への建国を目指す原理主義的なグループと、安全に暮らせる場所であれば東アフリカへの入植であっても認めるグループとの間で、しばしば辛辣で激しい議論を巻き起こし、シオニズム運動は分裂寸前となる。
そして1904年、ヘルツルは過労から肺炎を起こし44歳で死去する。
ヘルツルの後を継いで世界シオニスト組織の会長に就任したデヴィッド・ヴォルフソンは、資金不足のため延期していた現地調査団(3名の派遣)を、第6回シオニスト会議から1年以上経過した1904年12月になって実施することにする。しかしこの遅れはイギリスを苛立たせ、シオニスト組織の評判を傷つけたという。
アフリカの探検家で退役軍人でもあったアルフレッド・セント・ヒル・ギボンズ少佐が委員長を務め、スイスの東洋学者で北西カメルーン会社の顧問でもあったアルフレッド・カイザー教授、そして3人の中で唯一のユダヤ人で技術者でもあったナチュム・ウィルブッシュが選ばれた。
1905年の初め、グループは約2ヶ月をかけて、東アフリカの該当する地域を探索する。
ギボンズ少佐やカイザー教授は、標高が高いため赤道下であっても温暖な気候であることを評価したものの、ウィルブッシュは、提案された領土は「ユダヤ人やその他のヨーロッパ人の入植地には適さない」と結論づける。
また多くのマサイ族が住んでおり、彼らはヨーロッパ人の流入を好んでいないこと、鉄道建設時にも被害が発生したライオンなど存在もあり、カイザーは悲観的な見方を示し、ギボンズ少佐はわずかに期待を寄せただけだった。
唯一ユダヤ人として参加したウィルブッシュはこのプラン自体を軽蔑した報告を行う。ウィルブッシュの反対姿勢には、パレスチナ以外のユダヤ人入植地を検討することを拒否した当時のシオニスト組織の考えが反映されているとも言われる。
なお彼を視察団員に選んだのは、東アフリカへの入植に反対なシオニスト指導者で植物学者のオットー・ヴァールブルクであり、またウィルブッシュは、遠征当時すでにパレスチナの工場へと資金を投じており東アフリカへの入植計画を好まなかったこと、植民地探検の経験が浅くアフリカにまったくなじみがなかった人物とも言われている。
3. 幻となった東アフリカのユダヤ人国家設立
1905年、スイスのバーゼルで開催された第7回シオニスト会議では、東アフリカでの現地調査結果も元に、ユダヤ人の大量入植には不適当であると結論付け、国家の建設はパレスチナとその近隣のみとし、それ以外のすべての地域を選択肢から除外する提案がマックス・ノルダウより示され支持を集める。
これに反発した人物が作家のイズレイル・ザングウィル。
彼は、「東アフリカには野生の獣がいるが、エルサレムにも野生の生き物、(ユダヤ人の入植に反対する)宗教的狂信者、敵対的なイスラム教徒がいる」(there are wild beasts in East Africa, but in Jerusalem there are wilder creatures. There are religious fanatics [hostile Muslims])と言って反論したという。
パレスチナの地以外を認めない決議を求めるマックス・ノルダウに対しても「歴史の法廷の前で告発されるだろう」(will be charged before the bar of history)といって非難した。
そして彼が主導し、パレスチナの地にこだわらず世界中のどこであってもユダヤ人の定住に適した領土を見つけようと試み「ユダヤ人領土機構(Jewish Territorial Organization、イディッシュ語で最初がIであるため通称はITO)」が設立される。
その後、1914年までに英領東アフリカでは、人口210万人のうちユダヤ人が15,169人となり、同じころ、オスマン帝国内のパレスチナでは、人口70万人のうちユダヤ人は85,000人となるなど、現地人口に占める比率でいえばそこまで大きな差はない状況が生じた。
なお一番多かったのは、ロシアから逃れてきたユダヤ人の大部分を引き入れたアメリカで、ユダヤ人の人口は1905年から1914年の間に倍増し300万人近くとなった。(そう考えてみると、アメリカ国内にユダヤ人の自治州という形での安住の地を構築する方法もあったのかもしれない)
しかしITOの活動は大きな成果が無く、また第一次世界大戦中に苦戦したイギリスが行った1917年のバルフォア宣言によって、現在の場所、中東でのユダヤ人領土の建設が認められると、存在意義を失ったITOは1925年の解散となり、ITOを主導したイズレイル・ザングウィルも翌1926年死去する。
第二次大戦を経て中東パレスチナには、彼らの願いであるユダヤ人国家イスラエルが建国されたものの、その地には今に至るまで争いが絶えない場所となった。
4. それは神の意志か、それとも人の業なのか?
もし20世紀初頭の時点で東アフリカにユダヤ人が入植し、その後その場所でイスラエルが建国していたとするなら、その地は、聖書にある神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地カナン=「乳と蜜の流れる地」(Land flowing with milk and honey)となったのだろうか。
たしかにその地にもマサイ族をはじめとした先住民がおり、何も軋轢や悲劇が起きないことは無いだろう。
しかし牧畜を生業とするマサイ族(現在でも全体で20~30万人)に対し、世界中から数万~数十万にもなるユダヤ人が東アフリカの一部地域に入植した場合、ユダヤ人が入植する面積やエリアにもよるが、そこ場所ではユダヤ人の方が大多数になりえたのではとも思える。
一方でパレスチナの地の場合、イギリスの信託統治が始まった1922年でアラブ人61万、ユダヤ人6万であり、1947年の国連による分割案が出された時でも、アラブ人132.7万、ユダヤ人60.8万とユダヤ人が少数派であった。
この人口差が犠牲者の数と難民、戦火の継続を生んだのではないか。
そして何よりも現在の中東において解決が見いだせない「エルサレムの帰属」といったユダヤ教、イスラム教、それぞれにとって宗教的に因縁深い場所がその東アフリカの地には無く、ユダヤ人にとっては単なる移住地としての建国であるため、神の名のもとに終わりなき対立が続くとも思えない。
また国内や近隣との土地の奪い合いに対処するため軍事力へ過剰な資源を投入しなくてもよくなり、欧米の金融資本からの資本投下もあって開発は進み、東アフリカを代表するような豊かな場所になった可能性もあったのではないだろうか。
それとも人が人である以上、信じる正義が異なると宗教の違いもあって妥協はできず、中東・パレスチナ、または仮に東アフリカの地であってもそこが「血と涙が流れる地」(Land flowing with blood and tears)となる運命は、変わらなかったのであろうか。
5. 引用及び参考文献
※人の業(ごう)
宗教/思想>仏教/儒教/ヒンズー教など>「業」の意味《(梵)karmanの訳》
1 仏語。人間の身・口・意によって行われる善悪の行為。
2 前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。「—が深い」「—をさらす」「—を滅する」
3 理性によって制御できない心の働き。
◆Die Welt掲載のDeclaration of the British Government allocating a “Jewish Territory” in East Africa (August 29, 1903) 1903年8月29日のDieWltに掲載された東アフリカに「ユダヤ人領土」を割り当てる英国政府の宣言
◆What’s the Truth about … the Uganda Plan?(ウガンダ計画の真実は何でしょうか?)
◆A Jewish Homeland in East Africa(東アフリカのユダヤ人の故郷)
◆Zionist Congress: The Uganda Proposal(August 26, 1903)
シオニスト会議: ウガンダ提案(1903年8月26日)
◆African Zion: The Attempt to Establish a Jewish Colony in the East Africa Protectorate, 1903-1905 (1968年に Weisbord, Robert Gによって発行された書籍アフリカのシオン:東アフリカ保護領にユダヤ人植民地を設立する試み、1903~1905年)
◆The Uganda Offer, 1902-1905: A Study of Settlement Concessions in British East Africa(ウガンダ計画、1902~1905年: 英領東アフリカにおける入植地の研究)
◆Shades of White: African Climate and Jewish European Bodies, 1903–1905
(アフリカの気候とユダヤ人のヨーロッパ人体、1903 ~ 1905 年)
◆Toponymy, Pioneership, and the Politics of Ethnic Hierarchies in the Spatial Organization of British Colonial Nairobi(イギリス植民地ナイロビの空間組織における地名、開拓者、および民族階層の政治)
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