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白鳥との遭遇はファンタジーへのいざない

もうずっとずっと前のこと。
初冬の、霧雨降るロンドンの公園で、
小さな川の流れを見ていたことがある。

そのとき何を思っていたか?
もう思い出すことはできないけれど、
川面から顔をあげた私は、後ろ向きのまま数歩下がった。

ドンとなにかにぶつかった。
Sorry! 慌てて振り返ったら、それは白鳥だった。
よろけた風もなく、どっしりとそこにいる。

黒曜石のような瞳が私を見ていた。
まっすぐ私を見ているようで、とらえどころのない目だった。

一旦は見つめ合ったものの、なんとも居心地が悪く、
結局、視線をさまよわせてしまった私。
再び謝罪の言葉を口にすると、動く気配のない白鳥の脇をすり抜けた。

一気に小川からの斜面を登り切って振り向けば、
煙るような風景の中、白鳥は優美な後ろ姿を見せてまだそこにいた。
いつも通りに今日もお散歩、といったところだろうか。

この予想外の出会いにうろたえたのは、どうやら私だけだったらしい。
しかし私は本気で驚いたのだ。
白鳥があんなにも巨大だったことにも驚いたし、
私に対して一歩も引かないことにも驚いた。

イギリスの公園はいわゆる風景式庭園で、丘陵地に小川にと実に牧歌的だ。
そぼ降る霧雨もまた効果抜群で、そんな一枚の絵のような田園風景の中、
私は思いもかけない形で一羽の白鳥と出会ったわけだ。

これは種族を超えた運命の出会いなのか。
はたまた無垢なるものに姿を借りたメッセンジャーの出現なのか。

なあんて、そのとき思ったわけではない。
けれど胸を占める驚きの下で、私は思っていたのかもしれない。

もしかしたらファンタジーの世界ってすぐ隣りにあるのかも?
パラレルワールドの入り口だって実は、
無防備に目の前に広がっているんじゃないだろうか。

ファンタジーの世界は特別なものではなくて、
自分の世界に繋がる一つだと、より思えるようになっていったのは、
きっとそんなあの日があったからだと思わずにはいられない。

そしてもう一つ言うべきことがある。
私は、特に鳥が好きなわけではない。
どちらかといえば、猛禽類を除き、大型の鳥類は苦手だったりする。
けれどなぜか白鳥は、あの日以来特別なシーンに登場するのだ。

これは少し前に違う記事内で紹介した写真だが、
ロングアイランドサウンド(内海、入り江)を行く二羽の白鳥。
薄曇りのサンセットで、世界は銀色の光に包まれていた。
そんな中を音もなく、流れるように進んでいく白鳥たち。
ビーチにいる誰もがその行方を無言で見つめていた。

そのとき、私の胸に去来したもののことを、
今となっては的確な言葉にいいあらわす事は出来ない。
それでもそれは深く深く染み込んで、
くっきりと刻みつけられたような気がする。

そして、地元公園で私はまたもや白鳥と遭遇する。
それは夏日のもと、実にほのぼのとしたものだったのだが、
親鳥を驚かせてはいけないと、私は木陰からこっそりその光景を撮った。
隠れすぎて木がメインになってしまうほどだった(笑)。

盾にしたその木は立派で、ゴツゴツと隆起した木肌が印象的だった。
おとぎ話のような、ケルトのドルイドの、と想像をしてしまうような。
そんなわけで覗き見る白鳥のいる世界がまたしても、
なにやら別世界のように思えてしまったのはいうまでもない。

しかし白鳥はなにも特別なものではない。
ロングアイランドでは結構色んなところで見られるもの。
でもなぜだろう、こうして時折はっとさせられる。

リセットされるというか、リフレッシュさせられるというか、
いや、リマインダーといっていいのかもしれない。
そう、それはきっと「ファンタジーへのいざない」なのだと思う。

自分のすぐ近くにある奇想天外で魅力的なあの世界のことを、
私が忘れてしまわないように、なくしてしまわないように。

キーボードを叩きながら窓の外を見やれば、
6月最後のニューヨークは燃えるような日射しの中だ。
けれど私の中には、しっとりとした初冬の冷気が立ち昇り、
頬を撫でる霧となって、鮮やかに通り過ぎていった。




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