バウンダリーを引いたら、べつにだめじゃない自分に出会えた。 | 吉本ユータヌキ「気にしすぎな人クラブへようこそ」
41歳、ここに至るまでのわたしの半生は、メンタルの乱高下によって消費してきた時間がありました。完全に閉じてしまったことも数年あって、そして今がある。
スムースじゃない人生だったけど、捉え方を変えれば全て納得のいく出来事だったように思えています。
今回は書評も交えて、過去のわたしについてもお話するのですが、本著は、その人のなかにある答えを創造するサポート、コーチングによって、物事の見方が変わった、という吉本さんや吉本さんのまわりの人の体験談を基に、事例を紹介。
ざっくりと構成を言うと、以下の4点。
・こういうことがあって(事実)
・自分はこう感じていて(受容)
・モヤモヤするポイントはこれで(分析)
・そうだね!こう捉えてみてもいいんじゃない?(認知からの提案)
公認心理士でコーチの中山さんと吉本さんが話し合うことで、人間には思い込みや思考の癖があるよね、ってことをシンプルに解いてくれる心やさしい1冊。さくさくと読めるし、最も気になるタイトルからつまんでいってもいいかもしれない。
公式Twitterでは、本著のなかをのぞけるので、まず見てもらえたらうれしいです。
やっと会えたねの気持ちでめくる1ページ
関連して、ぜひ読んでほしい!と思うものがあって、それは吉本さんがSNSで連載をしていた漫画「「漫画家やめたい」と追い込まれた心が雑談で救われていく1年間」です。本著の前日譚になります。
ここで吉本さんは、自身のままならぬスキルやキャリア、想定していたライフプランとの剥離、周囲と自分の比較で深く落ち込む沼にハマり、自我を手放した状態のところでコーチの中山さんと知り合い、雑談からアイデンティティを見つけてゆく過程がつづられています。
この経験から、事実を事実としてただ認めること、そして解体と再構築をして、べつにだめじゃない自分を知っていく解放感を知ります。
それによって、似たポイントでつまずきがちな人々に向けて、あるあるとして語ってみようよ!という愛情とフレンドシップが、本著「気にしすぎな人クラブへようこそ」に込められていると思いました。
事例の多くは、わたし自身も経験したことがあったから、まさに「気にしすぎな人クラブ」の一員として、受け入れられてるゥ〜〜〜という温かさが沁み入ったわけです。
棚おろしはまず、自分の手元から
わたし自身は、ボディポジティブに出会ってから、その道中にあるセルフラブによって、まず自分を否定しないことを学びとり、そこから「べつにだめじゃない自分」がいることを知りました。
フェミニズムを知って、それから変化があったと感じるひとも多くは、「自分をないがしろにしないこと」を実践されていると思います。
本著では中山さんと吉本さんの間だけでなく、さまざまな関係性にも当てはめて考えられるようにしてあります。共感だけで終わらず、学びがある。
まずさっそく中山さんによって「起こってないことを考えるのは、ひとり相撲である」という指摘があって、たったひとつのセンテンスだけで、自分の背負っている負担がするっと軽くなるんではないだろうか。
これは全編に通じる本著の基本のき、だ。思えば、ひとり相撲によって消費してきた時間が、どれだけあっただろう……!
ジャストなうでお困りのみんなにはもちろん、こうして考えてもらえるといいのね、と周りにいる部員(=気にしすぎな人)のことを思いやることができちゃう、これは手引きの書。
両手にいっぺんに荷物を抱えてパニックになっているところを、落ち着いて断捨離して、自分を労わろう、楽にしていこうって、エールなんだと思う。
感情や思考など、まるごとの自分として持てるもの、って限られていて両手で持てるだけ。拡張機能(袋や箱など)に入れていても、中身が重たければ腕はしびれて、いつまでも持っていることはできません。
そのとき荷物となっていることは、衝撃的で強い体験で感じたことだったり、たくさんの情報を目にする余りに吸収していることだったりします。
定期的にコーチングやセルフラブ、ジャーナリングの実践を通して、その荷物をダウンサイズすることができるんです。
チョークで陣地を引くイメージを持とう。わたし、ここからここ─!
セルフラブを知り、そして身についたことのひとつに、バウンダリー、というものがあります。自他の境界線を意味しています。
チョークで円を描いてみて、重ならず隣りあっているイメージが適当かな、って思います。
ここ数年の繊細さんやHSPなど、心理学への熱い注目とともに、自分自身の取扱説明書を作るように「自分という者の理解」を推し進めていくためにも、バウンダリーは必要とされているなと感じています。
他者のことは、基本的にコントロールはできません。
チョークで描いた陣地をはみ出していく行いとは、求められていないアドバイスであったり、状況に関わらず心配というコートをまとって放たれる言葉に表れます。接点のまったくない他者へは、特に顕著に行われているかと思います。芸能ゴシップのリアクションやSNS上でも、他者に対してよく見かける光景だと思いませんか?
J(事実)とK(感情)の癒着とは
これは自分の実体験なのですが、わたしは20代半ばでデートレイプに遭った頃、半生のうちでメンタルが最も乱れていました。
そんな自分がいたことは否定しませんが、その頃の自分に戻りたくないなあ、と考える要因に、感情的な怒りに取り込まれているときの自分は、周りにいる人たちに対して非常に粘着質でしたし、同時に乱高下する気持ちに疲れを感じていました。
でも、気持ちの疲れって「なぜどうして自分の心身はこんなに疲れてしまうのか」ということが全く言語化できておらず、ほんとうに気がつかないものなんですよね。
事実(こういうことがあった)と感情(わたしの心はこうだ!)が混濁すると、感情のボリュームばかりが大きくなりがちです。それによって、感じたこと考えたことの適切な出力がわからなくなる、ということが起きます。
事実と感情の癒着については、下記noteでも触れています。
相手の反応は種々様々あると想像し、自分を見つめて感情を言語化する。
って、全然むずかしいことではないんですね。放たれた感情も、自分のジャストなうです。その感情を自分のために分析すること、やってみてどうなったか結果を知ること、その後どうしたいかを考えることは、めぐりめぐって他者のために働くので全然、自分のためでいい。
わがままなんかじゃないんです。
それらが行われないと、正しく自分の欲望を見つめられないんだな、って思いました。自分の感じたネガティブには即!反応できるくらい率直なのに、自分自身の快・不快についての実態はよくわかっていない状態のときって、普段から文句や愚痴ばかり言って、褒め言葉やそのシチュエーションに疎かったりしませんか。
P128の事例に対してのおふたりの「怒りの解剖」が、癒着していた頃の自分の解として、まさに!と感じました。
自分ほったらかし人生よ、さようなら。
わたしは2021年のホテルステイで、物理的に「限られた容量に、自分が心地よく過ごすためのもの」を詰め込み、そして生活することをしてきました。
思い返せば、それは自分の想いを自分がもらさず傾聴する、といったルーティンづくりになっていたんだと思います。
他者を思いやれることは、素晴らしい経験に繋がります。
子どものため、パートナーのため、親のため、まったくの他人のため、繋がりを持っておくことは社会生活を円滑にすることもあるでしょう。
そして、子どもと動物、疾患や高齢で手助けを必要とするひとを除けば、おおむね放っておいてもなんとかなる人々です。
そこに、自分のジャストなうを優先することを少しずつ実践してみると、自分のなかの当たり前にフォーカスして、視点が変わってくるのを感じます。劇的!とまではいきませんが、ゆるやかで確実な変化です。
あなたとわたしは違って、そして友だちになれるんだと、吉本ユータヌキさんとコーチの中山さんが「気にしすぎな人クラブ」に誘ってくれますよ。
chicca
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