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自撮りは「行為」ではなく「ツール」だと思う。

およそ自撮りというものは、

・青春が満ち足りている若者がやるもの
・"映え"、ナルシシズムの象徴
・旅行の思い出、非日常の高揚感

と思われがちです。
この列挙した内容だけでも「自己肯定感」のハードルがあることは、なんとなく見えてくるかと思います。
年齢の移ろい(あるいは虚い)と共に、明るく楽しく過ごしたい人にこそ私は自撮りをおすすめしています。
なぜなら、そもそも写真になど映りたくなかった私のマインドは、自撮りによって変化があったからです。


そもそも自己肯定感とは?

・自己肯定感(じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり[1]、自尊心(英語: self-esteem)、自己存在感、自己効力感(英語: self-efficacy)、自尊感情などと類似概念であり同じ様な意味で用いられる言葉である。
・多田怜子・蛎崎奈津子・石井トク 「自分自身のことが好き(自己受容)」、「自分自身を大切にしている(自己尊重)」、「生まれてきてよかった(自分の命に対する受容)」を合わせたもの。
─  Wikipediaより

私は自己肯定感のことを「自分自身を認める、それによって自分を好きになる」ことと、自己理解の度合いと解釈しています。

そういえば最近よくみる「自己肯定感」というワード

本屋クルージングをしてますと、話題書の棚に「自己肯定感」に関する書籍が増えたな、と感じます。
中田敦彦のYouTube大学」でも過去の授業にあり、自己肯定感ポーズ\(^o^)/が印象に残っています。


また、SNSが大好きです。
Twitterは「つぶやき」と呼ばれる気軽さからも、市井の声があふれ、民意が反映されやすい場ではあるので、トレンドやニュースに関するつぶやきを見れば見るほど、感じ入るものがあります。それは本当にニュースの話なのかな、と。


Twitter観測から感じる、事実と感情の癒着

ニュースを取り上げ、ユーザーの関心の高いトピックについては「トレンド」といってランキング形式で、しばらく目につきやすいところに上がってきます。
それを元に、ニュースについて話すさまざまな人々の意見がありますが「果たしてこれは文脈を理解しての話かな?」と、感じることが多々ありました。
たとえば語尾に赤い「 ‼️ 」と共に、激しい言葉を多用したツイート。
上にも挙げた中田敦彦さんは3月からシンガポールで生活なさっていますが、日本出立前のニュースに関しても否定的な見解がたくさんあり、そのどれにも共感も納得もできなかったことを思い出します。
国籍を捨てろ、とか税制優遇の国に行く守銭奴、など侮辱的な内容で、敬意を感じられない物言いであったからです。
(日本国外で生活している日本で生まれた人たちも、日本と違う国にルーツを持って日本に住む人たちに対しても失礼な話)
どこで生活するかは収入や資産に応じて、誰にも選択できることですし、新しい生活のために、よりよい条件を選ぶことは自然なことです。

そして、そのような口調の方は「侮辱的な言葉を使えることは強さ」と誤解しているのでは、と受け取りましたし、「ニューストピックとは違うところで怒りや痛みを抱えているのでは」と、心配になるほど取り憑かれています。誰かの足元にスライディングで現れては、人を下に見ていると激しい言葉を使っていく様子を、滑稽さを、思い描きます。

私が自己肯定感を少しずつ得てきた過程には、「言葉を事実として捉える」があります。
精神的なバランスを崩しているときは、これがうまくいかないんですね。
特に、口語調の言葉は、感情によってボリュームが大きく感じられることがあります。
それによって話し手が意図しないことを捏造したり、歪んで認識するよう自分から自分に仕向けているところがあります。私は "事実と感情の癒着" と呼んでいます。
(他者の目線についても、ほぼ同じことが言えます)


事実と感情の癒着は、自己否定を深める

「攻撃する人は既に傷ついている」と、ある人が言いました。
私も侮辱的な誰かになりうる可能性を持っている、と実感します。
でも侮辱的な誰かになりたいと積極的に思わないのは、自分を大事にしているからで、まず自分にやさしくあろうとしたんです。
その工程を教えてくれたのは、Twitterで出会った漫画、漢弾地 著「僕と妻の場合 ─ 僕たち夫婦が仲良く暮らしている理由」でした。
著者が妻とのやり取りを通じて学びを得て、反省と自己理解を深め、そして感情を分析する。
この著者の体験のひとつが "自己否定のロジック" をよく表しているな、と思います。
最近も友人に薦めました。私のふせんはP66とP92に貼ってあります!

先程の例もそうですが、中田さんは今までもたびたび「表明」をしては、そこにニュースの解釈が混ざって、常に反発の声にさらされてきましたが、「個人の表明(=私はこうします)」を「強要(=お前もこうしろ)」と捉えているのが、反発する人に共通していて、そこからお金を恐れ、外界を恐れ、生活に希望を持つことそのものを恐れているように私は感じました。
「攻撃する人は既に傷ついている」と、ある人が言いました。でも傷ついていることを認めていない人が、たくさん居るのだなとリプライを眺めます。

私自身で言いますと、生育環境から自己否定が低く、もともと "感情と事実の癒着" はありました。それが激化したのはデートレイプの後です。
ありとあらゆる憎しみの言葉を心に抱えていました。
SNSでは共通の友人もいましたが、事の深刻さを理解している人は少なく、どこにも心のうちを発することはできなかったのです。
激しい言葉は自分を傷つけます。敵意を含んでいるからです。
心身ぼろぼろになって、そこに心地よさを感じることは無理な話。
経年と共に、やみくもな怒りと執着を手放し、自分に優しくしたいと思ったとき「人のいいところを学んで生きなおそう」と動くことができました。

自撮りは「行為」ではなく「ツール」だ。

冒頭に戻りましょう。

・青春が満ち足りている若者がやるもの
・"映え"、ナルシシズムの象徴
・旅行の思い出、非日常の高揚感

自撮りはこう思われがちです。
しかし、Instagramでは世代問わず、"自分は被写体である" ということはスタンダードなことです。
それは「自分を取り戻す」、自信の快復によく効きました。
こちらのエントリーで述べたように、自撮りは公開しなくてよいのです。
まずはお守りとして "自分の笑顔" を持っておきましょう。

私が公開をするのは、メソッドや体験を伝える上で欠かせないものであるからなんですね。
昨年の今頃から、私の青春は始まりました。
周りの人を信用できる、そんな状態で迎える青春は今生、何にも変えがたい体験です。
ツールとして自撮りを活用し、それをコミュニティの仲間に見てもらったことで、研鑽と自信を磨いてこれました。
そして、今こうしてnoteをつづっています。
自分をまわりが承認してくれたこと、自信に余力があることで、発信ができる。ちゃんとステップを踏めるように、周りが助けてくれたおかげだと思います。
(ときどき踏み外しますが🙄)

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1日1ニコ、自撮りをして笑顔になった日数が、あなたの自信になると私は信じておりますよ。



▼僕と妻の場合 ─ 僕たち夫婦が仲良く暮らしている理由

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