見出し画像

AIに叱られた……。

筆者は牧師でもないし
教師ですらありません。
俗にいう"平信徒"の一人。
そう、教会の中ではどちらかといえば
責任の少ない、お気楽ポジションにいます。
ぶっちゃけ、教会休んでも何も言われないし
説教の途中寝ていても何のお咎めもない
比較的気楽な立ち位置にいます。

そんな筆者が何故、今、
Harpazo Channel まで作って
福音、福音、言い始めたのか?
チャンネルの収益化が目標ではありません。
2022年2月28日を境に
聖書の時計が動き始めた!と感じたからです。
その日は、ロシアがウクライナ侵攻を始めた日。
聖書に記されているのは知ってましたが、
ホントにロシアが動いた!という純粋な驚きです。 

…とすると、エゼキエル戦争も十分あり得る

 聖書に記されたことは100%起こると信じていても、目の前で成就しそうなのを見ると、やはり驚きます。エゼキエル戦争は(携挙を除けば)聖書預言では1948年のイスラエル建国以来、次に成就する歴史的出来事に当たります。エゼキエル戦争については、他のページで詳細に説明しているので、そちらを参照してください。

 一般的な日本人にとって、それは普通の一日だったかもしれませんが、聖書とイスラエルに目を注ぎながら世界を眺めてみると、まったく別の景色が見えてきます。イスラエルは歴史の針みたいなもので、聖書と照らし合わせると、今、自分たちが歴史のどの地点にいるか分かるから不思議です。

 現在のイスラエルの現状を見ると、私たちが"終わりの時代"と呼ばれる時代に生きていることは確かで、終末時代に向けて着実に、神の時計が進んでいることが分かります。逆に聖書とイスラエルを抜きに世界情勢を見ると、マスコミのイデオロギー色眼鏡を通して見ることになるため、偏重報道にも気づきにくくなります。パンデミック時の報道がまさにこれで、毎日毎日、数字を並べ立て脅威が迫っていると煽られる。これを一般的には「洗脳」と呼びますが、無防備なままではこの手法を浴び続けることになります。相当な決意と何らかの裏付けがない限り、社会的にも道徳的にも注射を打たない選択肢を取るのは困難だったはず。今やリベラル陣営、保守陣営を問わず、クリスチャンでさえ、聖書の言葉に触れていないと、それぞれの立場から発信される、正しい情報とデマが入り混じった混沌から、留意すべき情報だけを抜き出すのは至難の業だと思います。パンデミックのおかげで私たちは、彼らのやり方を体験的に知ることができたわけです。

 また、聖書の情報とイスラエルの現状を照らし合わせると、携挙が近いことは間違いなさそうです。聖書では「携挙の日時は特定できない」としているので、牧師や教師は特に、このテーマを扱うときは気を遣っています。が、近いと感じている牧師は少なからずいて、さらに、そう感じている平信徒の数が多いことはSNSなど見ていても一目瞭然です。

 以下に何人か YouTuber を紹介しますが、彼らだって牧師でもない、教師でもない、そう、筆者同様、"平信徒"なのです。それぞれ言葉も違うし、住んでいる場所も違います。しかし、それぞれが何らかの"緊急性"を感じて発信しています。やり方は粗削りで洗練されてないし、専門の教育を受けた牧師や教師からすると、あり得ない、けしからんと思われるかもしれません。しかし、それぞれの動画の空気感は、総じて似たものを感じるわけです。その空気感を言い表す言葉は「緊急性」とか「緊迫感」というもので、携挙を逃すと大変だから、早く福音を信じるようにという勧めです。言っておきますが、筆者は彼らのことは一切知りません。

 実は、この「緊迫感」というか「緊急性」を伝えたい旨を、今をときめくchatGPTに聞いてみました。すると返ってきた返事に苦笑せざるを得ませんでした。AI「どうして緊迫感を持って伝えたいと思ったのですか? 理由を教えてください」「え―――ッ、そーきたか」と理由を幾つか返すと今度はAI「福音は、愛や喜びを持って伝えるもので、緊迫感をもって伝えるものではありません。脅迫と捉えられると、カルトと間違われてしまいます」
「確かに仰るとおりでーす(棒読み)」

 そもそも福音の意味は「良い知らせ」で、喜びの訪れを告げるもの。できることなら、愛や赦し、寛容によって導きたいものです。でもそれが許されているのは平時だけ、時間に余裕がある時だけ。頭上から致命傷を負わせるほどの落下物(例えば2トンのコンクリート片)が降ってきている時は、大声で「危ない!」と叫ばないでしょうか。腕を引っ張ってでも、タックルをブチかましてでも、危険な場所から移動してもらう必要があります。

 秀吉の時代の茶人たち、例えば、利休やノ貫(へちかん)、古田織部みたいな洒落た(詫びた?)演出やおもてなしができればよいのですが、ここは素直に福音の力にすがりたいところです。人を安全な場所まで連れて来られるのは福音だけだから。どんな人間の知恵も演出も、福音には及びません。

 今の時代はエレミヤの時代と似てます。預言者エレミヤは別名「涙の預言者」と呼ばれた人物。彼が活躍したのは、紀元前500年ごろイスラエルにあった南ユダ王国と呼ばれる国。この国は、新バビロニアに滅ぼされ、人々が捕囚として連れ去られる、所謂「バビロン捕囚」に見舞われます。エレミヤは南王国の民に、自国の滅びを告げる役割が与えられた預言者です。楽しいはずがありません。

 当然、そんな重く陰気臭い知らせを告げられた民は激しく反発します。当時はエレミヤだけではなく、"預言者"と呼ばれていた人たちが、他にも多く活躍していたようです。他の預言者は「神は必ず助けてくださる」とか「我々は正しい方向に進んでいる」とか、楽観的で前向きなメッセージを語っていたようです。現代社会と似てますね。YouTube でも、人気があるのは、楽しいエピソード、セレブな人たちのセレブな生活、笑える動画、将来に対する明るい話題ばかりです。人が見たい聞きたいと感じるのは、前向きな話題で、罪と罰、裁きや滅びの話は誰も聞きたくありません。

 ところが現実は厳しいものです。エレミヤの南王国は、彼の預言通り敵の手に落ちてしまいます。前向きなメッセージばかりを語っていた他の預言者たちは皆、神の言葉を曲げて語った偽預言者として裁かれます。聖書の「哀歌」には、南王国の滅亡に関するエレミヤの嘆きの歌が記されています。辛い役割だった思います。なのに、このエレミヤさん、最後まで捕囚で連れて行かれなかったイスラエルの民と共に踏みとどまり、未来のイスラエルの救いや回復を預言して、懸命に民を励ました人でもあります。

 急ぐ理由はもう一つ。人が福音に応答するには時間がかかるという事実。人は、福音を聞いて、直ぐに反応できません。人は見たモノ、聞いたことに対しても、直ぐに受け入れることはせず、じっくりと吟味してから、受け入れるかどうか決めます。ナツメヤシの種は地上にまかれてから、数年経たないと実がならないそうです。その間、下方に根を伸ばし、土地にしっかりと根を張った後、実をつけます。いったん実をつけると、その後何十年にもわたって、豊かな実をつけるのだとか。

 日本では福音に応答しにくい土壌があります。日本では歴史的にカルト的な教えが育つ土壌があって、定期的にカルト宗教がマスコミを賑わしています。自衛本能からか、日本人は宗教に対して警戒心が強く、それ自体決して悪いことではないと考えます。そう簡単には、オイシイ話に引っかからないゾというわけです。

 福音はその名のとおり、ザ・オイシイ話です。

 本当にこんな美味しい話は他にないと思う。ちょっと思いつくだけでも――――。無償で罪が赦される。神の裁きからの解放。罪と無縁の人生が与えられる。死んだ後も生きる=永遠のいのち(初めて聞いた人は信じられないかもしれませんが)。携挙にあずかり、大患難時代を回避できる。他の信者とずっと共に居ることができる。孤独を感じていた者ももはや一人ではない。不正ばかりだった地上で正義が為される。地上が再びエデンの園のように生き物で溢れかえる。"キリストの花嫁"としての特権(未だ詳細は知らされていない)。信仰生活が長い人はイエスの人となりをある程度理解しているので、憧れの人物と実際に会える…等々。信者となっても、まだまだ知らされていない事柄があるので、実際、手にした時、初めて理解できるオイシイ話もたくさんあると思われます。

 ザ・ファンタジーの世界です。近年、有名になってしまったハラリ氏もそう語っています。(下の動画3:20付近~) ところが筆者の考えるファンタジーとハラリ氏の考えるファンタジーは若干異なるようです。筆者の考えでは、ファンタジーは現実になり得ない。例えば、どんなに会いたくても、風の谷のナウシカに会えません。ナウシカは歴史上の人物ではないからです。しかし、聖書の記述のかなりの部分で、歴史的な記述です(すべてではない。現時点までで起こるべきことは、100%歴史的出来事として実際に起きているが、預言箇所は文字通り未だ起きていない)登場する人物も地名も、すべて実在が確認できます。ハラリ氏は検証し忘れたのでしょうか? ユダヤ人として生まれているのに、ユダヤ人の歴史を。

 生い立ちを聞くと、ハラリ氏が社会や聖書に対して憎悪や敵意を抱くように至った経緯は、同意はしませんが、理解できます。性的マイノリティであるがゆえ今まで断罪されてきて、反対に聖書の神を断罪したくなる心情は。人間の歴史が3000年~5000年もの間、"変わらない"というのは、それが"真理"だからでしょう。真理は"不変"のものだから。実際彼は、"真理"を"ファンタジー"と再定義しているだけです。"真理の上書き"です。

 リベラル界隈では、スーパーヒーローのようにもてはやされるハラリ氏ですが、筆者の目には、今まで受けてきた仕打ちに対して一撃を加えようと、復讐に執着した男の哀れな姿しか見えません。彼の本は読んだことがありません。単に読む時間がもったいないからです。

 福音は人間にとって、喜びの知らせであっても、ヘビ(サタン)にとっては、破滅の言葉です。人が福音を信じて救われると、ヘビは最早その人の魂に触れることを赦されません。信じた人はイエスの血によって買い取られ、神のモノとなるので、ヘビの所有物ではなくなります。文字通りアンタッチャブル Untouchable となります。

 不信者の場合は別。ヘビは人の魂に関して、いかようにでもできる権威を有しています。ヘビはこの世の神だから(IIコリ4:4)。この件だけ取り上げてみても、福音は "ザ・良い知らせ" ではないでしょうか? 未信者の皆さん、聖書の定義によると、貴方の魂は今だにヘビの手中に在ります。これまで無意味でクソみたいな人生を送ってきたとしたら、それは当然だとは思いませんか? でも、安心してください。それは"今日"という日のうちに、方向転換が可能です。

"今日"という日のうちに、方向転換を!

「イエスが神」ってちょっと抵抗ある?

 一般的に、日本人は「イエスは神である」という言葉に違和感や抵抗を感じるようです。「イエスは人間だった」「イエスは偉い人」というのは一般的に受け入れられていると思うのですが、「人間が神?」それは結構な思い上がりなんじゃないの? 筆者自身そうだったので、皆さんがそう感じても何の不思議も感じません。実際、この部分を自分自身に納得させるまで、結構時間がかかったことは確かです。できる限り、理解しやすいよう説明したいと思います。

 聖書の神は「三位一体の神」というのは、どこかで聞いたことあるでしょうか? そもそも三位一体という言葉は、実際は聖書にはない言葉です。例えば「人間」、または「自分」を言葉で表現したり、紙面に書き残すことはほとんど不可能であるのと同様、さらに目に見えないうえに人より高い次元に存在する「神」を言葉で紙面に表すことは、ほぼ不可能だということなのでしょう。実際、三位一体については、一冊の本が書けるほどなのだから。ここではあっさり触れるだけにします。苦笑

 神学では、三位一体とは、(第一位格*・父なる神)、(第二位格・子なる神)、(第三位格・聖霊なる神)の三つの位格(性格)を持った唯一の神とする教えのことなのですが、学校でもマスコミでも割とハチャメチャな使い方をされているため、混乱しても仕方ないと思います。水と氷と水蒸気を例に挙げて、説明する向きもありますが、必ずしもその通りとは言い難い。大体、想像主と被造物とは比較の対象になり得ません。(位格*:他者に対して区別できるパーソナリティ。人については「人格」という言い方がされる。神の場合は「神格」か? ラテン語ではペルソナ)

 この三位一体をググってみると、キリスト以降、つまり新約聖書の概念…みたいな説明に出くわします。これは必ずしもそうではなく、実際は旧約の時代、つまり世の始まりからずっと、神は三位一体の神だったことが分かります。旧約聖書には、神の使いとして人間の姿をとった第二位格、つまりイエスが登場しています。例えば、創世記でヤコブと格闘した神の使い、戦いの前、樫の木の下でギデオンの前に現れた神の使い、ソドムが滅ぼされる前の日、ロトの前に現れた神の使い、アブラハムに現れた神の使い、等々、人の形をとって、受肉(人として世に来られる)前のイエスが人間の歴史に介入されたとも言われています。

神は仰せられた。「さあ、人をわれわれ(複数形*)のかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」

創世 1:26 (*)は筆者による

 この神は、創世記のはじめに人を創られた際、上のように自らのことを「複数形」で語られています。一人であるなら、ここは「単数形」の「私」を使うところです。これは、原典であるヘブル語版でも同じです。「三位一体の神」であると考えれば、複数形の言い回しは矛盾することもなく、すんなりと受け入れられます。

 要するに、何が言いたいか? 父なる神、子なる神(イエス)、聖霊なる神を唯一神と呼ぶならば、「イエスは神」と呼んでも問題ないはずです。実際「父なる神は神」とも言えるし「聖霊なる神は神」とも言えるわけです。ところが、頭の中で無意識にブッダやムハンマドなど、偉人と呼ばれている人たちと同列で語られると「イエスは神」という言い回しにつまづいてしまいます。

 新約聖書中、実際にイエスが自らのことを「神」と呼んでいる箇所があるかというと、文字通り「わたしは神である」と言っている箇所は見つかりません。この点を指摘して、少し聖書知識のある人は「イエスは自分のことを神と言ったことはない」と誇らしげにいいます。だから「イエスは神ではない」と言いたいのでしょう。イエスが御自身のことを「神」と言い表すことを神学では「神性宣言」といいますが、実際は至る所で神性宣言を為されてます。有名なところでは、ヨハネによる福音書で「わたしと父とは一つです(10:30)」と宣言されているし、「わたしは世の光です(8:12)」や「わたしはよみがえりです。いのちです(11:25)」、「わたしは道であり、真理であり、いのちです」(14:6)というのも神性宣言と呼べるでしょう。

 個人的に一番好きなイエスによる神性宣言は、ヨハネ8章の後半部分にあります:

56 「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」59 すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

ヨハ 8:57-59

 この箇所では、アブラハムに関する激しく長い議論の後、ユダヤ人指導者たちがイエスに質問を投げかけています。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」※ これに対するイエスの答えは「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」この後、ユダヤ人指導者たちはイエスに投げつけようと石を取ったとあります。文字通り、ブチギレたわけです。理由は、彼が「神性宣言」を行ったから。※注:アブラハムは紀元前2166年頃の人物。イエスよりもさらに2000年以上前の人物です。

 どうしてこの言葉が「神性宣言」なのでしょう? それには少し説明が要ります。これは旧約聖書に登場するモーセが神と出会うシーンで、神が御自分を指す言葉として『わたしはある』という表現されたため、旧約聖書を熟知していたユダヤ人たちは、神への冒涜であると受け止めたわけです。「私は神だ」といった野暮ったい表現は使わず、ユダヤ人であれば誰でも知っているフレーズを用いて、自分は『わたしはある』という者だと宣言したわけです。筆者は、この場面が大好きです。理路整然としていて、青空のように晴れ渡るようなキメ台詞だから。

 人間が「自分は神だ」と言った場合、冒涜の罪に問われても仕方ありません。しかし、神が自身を指して「神である」と宣言しても罪には問えないでしょう。「神が自分は神だ」というのは事実だし、神は嘘をつけないのだから。「神は何でもできる」と誤解されている方が多いと思いますが、前述同様、神は、罪を犯すこともできません。他にも神は、自己矛盾を引き起こすような言動はできません。

すべてを知ることができる日は来ない?

「すべてを知ってから信じる」は実現不可能?

 聖書に少し興味が湧いてきた時点で、気になる問題、それがこの「罪」です。純粋な質問である場合もあるし、人によっては「自分は罪びとには当たらないこと」を証明するために聞いてくる人もいます。ここでは、前者の皆さんのみにフォーカスしてお話ししましょう。後者の皆さんについては放置プレイで。笑

 前者の、純粋に罪が何か知りたい人とは「信じることを前提に」質問する人だと思われます。そういう方のため、僭越ながら先輩からのアドバイスを一つ。全部を知ってから信じようとしないこと。なぜならそういう日は永遠に来ないからです。「盲目的に信じろ」と言っているのではありません。それこそ、カルトです。これは「罪」の特性に関わる問いだからこそのアドバイスです。

「罪」のテーマは生きている限り、ずっと直面する問題で、個人差があり、信者として生活する中で、新たに気づかされたり発見したり…「罪」の理解は現在進行形で展開していきます。福音を信じてから何年経っても何十年経っても、ずっと新鮮な問題であり続けることでしょう。それほど「罪」は根深い問題で、ここを深掘りしても、却ってマイナス面に焦点が当たり続けるだけ。せっかく十字架により「罪」から解放されたのに。「ある程度理解したら、見切り発車でよいので信じようと決めること」。これが先輩からのアドバイスです。知りたかったパズルのピースは後々埋められていきます。

 もう一つ。重要なアドバイスを。それは「使徒たちの証しを信頼する」です。「使徒」とは、イエスと一緒に活動した弟子たちのこと。そして、十字架に架けられて死に、墓に葬られ、三日後のイエスの復活を目の前で見た人たちです。この人たちは、自分たちが見たこと、聞いたことが「聖書どおり」であると証言した人たちです。彼らは、自分たちが見たこと、聞いたことが事実であることを証明するために、命をかけた人たちだから。人は「嘘」を証明するために命をかけません。イエスの復活を目の当たりにした人は、500人以上いたといいます。

3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。

Iコリ 15:3-6

 この500人は、この手紙が書かれた時点ではまだ生きていて、その真偽を確かめようと思えば、その証人たちの許に出向いて話を聞くことができたということです。2000年経った今、多くの人が信じているのは、この証人たちの存在があったからこそ。この人たちの言葉を信頼して、福音を受け入れるのがよいと思います。おすすめです!

 さて、話を「罪」に戻しましょう。

「罪」と聞くと、盗みとか、嘘をつく、人を傷つけるなど、個々の罪が頭に浮かぶ人が大半かと思います。ただし、これらは単に「表に出てきた行い」であって、罪の本質は内側に巣食っている「罪の性質」です。一般的に「法律上の罪」と「聖書に記された罪」は異なります。

 人はこの「罪の性質」をなくすことはできません。「明日から罪は犯しません」と誓っても、性質ですから、罪を犯さずに生きることはできません。生きている限り「罪」の問題はその人につきまとう。人は死なない限り「罪」から解放されないわけです。人は罪に対して無力なのです。

「罪」とは聖書的には「的外れ」を意味する言葉で、神の御心(意図)とは異なります。アダムとエバの話は、おとぎ話と思っておられる方が多いと思いますが、アダムとエバは地上に実在した人物です。実際「罪」はこのアダムとエバを発端に「遺伝」を通じて、現代に生きる私たちに受け継がれているのだから。聖書の記述がおとぎ話なら、今私たちが「罪」によって苦しめられる道理がない。しかし現に、私たちは「罪」に苦しめられているわけで、皆さんも、テレビやニュースで強盗や殺人事件を起こした犯人の動機や生い立ちを聞くと「自分はここまで酷くない」と思う反面、自分だって少しでも足を踏み外せば、その犯人と立場が入れ替わっていたかもしれない…そんな心情に駆られたことはなかったでしょうか。

 遺伝を通じて罪が人類全般に広がったなら、人の子である以上「罪」から逃れられるはずがありません。突然変異で生まれてきた人は、一人もいないはずだから。となると「罪の性質」を既に持った状態で生まれてきているわけです。人間はある意味、根っこが切り取られた切り花の状態で生まれてきたみたいなものです。根っこから水を吸い上げることができないので、一定の時期がくると枯れてしまう。ロマ書6章23節には「罪の報酬は死です」とあります。要するに「罪の性質さえなければ死なない」「永遠に生きる」ということになります。事実はその様ではないのだから、人間には元々「罪」があるということになります。

 時折、2000年前、地球の反対側で生まれた人物と今現在日本という国に生きている自分と、どんな関わりがあるのか?と尋ねる人に出くわします。もし自分に「罪がない」ならば、その人にとってイエスは不必要な存在です。さらにその人は「罪がない」のだから、永遠に生きるはず。しかし現にそういう人は存在しませんし、それでも「自分には罪はない」と言い張るならば聖書で語られる「罪」の概念を誤解しているか、理解していないかのどちらかと言えます。

 福音を信じることをためらう人の気持ちも理解できます。信じた後、罪を犯さない自信がないので、ためらっているのでしょう。でも安心してください。変な言い方かもしれませんが、貴方は間違いなく罪を犯します。それは死ぬまで変わりません。死ぬ時にやっと罪から解放されます。「罪」はそれほど厄介なものです。生きている限り、「罪」との葛藤は続きます。聖書はそれに対処する方法も教えてくれています。

1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
3:20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。

Iヨハ 1:9, 3:20

 何度でも、自分の罪を告白するなら神は、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいますというのが約束です。一人になれる場所に行き、祈りの中で神に告白すれば赦されます。約束してくださったのは神なので、誰よりも信頼してよいはず。私たちが自分の力で罪から解放されることがない葛藤については、神も最初からすべてをご存じだから

「聖書の罪」と「法律上の罪」とは異なる

聖書のいう「罪」って何?

 さて、では「罪」とはいかなるものか? 聖書ではどのように記されているか、見てみましょう。

21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。24 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。

ロマ 1:21-27

 この箇所では「罪」が軽いものから、重いものへ移行していく様が描かれています。大自然に抱かれて、壮大な景色を見渡すと、人は自分の小ささを認識するといいます。偉大なものを目の当たりにした時、人は「神」を意識するそうです。最初、彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめずという軽微なものから始まり、時が経つと共に「罪」は熟して、27節にあるような性の逸脱行為を「自然な行為」として自他共に認めるようになります。欲望を突き詰めても、結局彼らは無価値な思いに陥り、いつまで経っても虚しく満足することがなくなる、と。29節以降を見てみると、2000年前に書かれた文章なのに、今の時代を見ているようです。

 日本でも「LGBT理解増進法案(LGBT法案)」が、2023年6月16日、国会で可決しました。これまではどちらかというと「性の逸脱」とみなされていたものが、今後は「自然な行為」、あるいは「当たり前」としてみなされます。今後「LGBT差別禁止法」が成立すると、これを「性の逸脱」と叫んだり、LGBTQ関連法に賛同できなかったりすると、その人は「犯罪者」とみなされ、法的な罰則を科されます。

 27節では、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えましたと記されています。聖書は、こういう行為が「罪」だと、LGBTQの人たちは罪人だと断罪しているのでしょうか? その通り。読んで字のごとく、明白に断罪しています。しかし今後「世界経済フォーラム上級顧問がAIで聖書を書き換えを提案」みたいなことが実現すれば、この箇所は真っ先に書き換えられるのでしょう。苦笑 しかしこの箇所では、LGBTQ当事者の皆さんだけでなく、より軽微な罪を犯している、神を神としてあがめず、感謝もせずの一般の人たちも罪人だと断罪しています。それどころか、上記のとおり、聖書はすべての人が罪びとだと断罪しています。

 神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったと書いています。警察のお世話になるような重罪を犯したわけでもないのに、貴方がもし人生を虚しいと感じているなら、貴方も立派な「罪びと」というわけです。多くの人はこの事実に向き合いたくないので大抵は、無視するか、前述ハラリ氏のように聖書の記述を「嘘」「ファンタジー」と定義し直します。ところが、無視しようが、聖書を書き換えようが、事実は残るので、引き続き、自分の虚しさや罪とうまく誤魔化しながら、その「ファンタジー」と付き合っていくしかありません。

 ただ、そんな人間に対して、聖書の神は、罪の泥沼から抜け出せる方法、罪の性質を取り去る方法を一つ用意して下さったと書いています。

23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

ロマ 3:23-24

 ここにも、すべての人は罪を犯していることを確認した後、24節で神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められることを約束しています。これが神が恵みによって用意してくださった唯一の方法です。一つだけでよい、のです。守るべき律法が200も300もあるわけではありません。

 このことは、神が約束されたメシアがイエスであることを認めて、自らが罪人の一人であることを認められる人に、無条件で与えられる恵みです。たった一人(アダム)の罪のために、すべての人が罪を背負わされますが、一人の罪のない方(イエス)の罪の贖いを受け入れることで、すべての人が赦されるという神の約束です。

 もっと突っ込んだ話をするなら「救い」に関する限り、福音を信じることだけが要求されていて、他のいかなる行為も救いの条件とはなり得ません。ありがちなのが、罪を告白しなければ、洗礼受けなければならない。あるいは善い行いを、毎週教会に通わなければならない等々、強要されるのであれば、それはもはや「福音」ではありません。

「宗教」と聖書の語る救いの違い

 上図の上矢印「福音を信じること」だけで救われるというのが、聖書の約束です。一般的に言われる「宗教」は「福音を信じること」に様々な「行い」を加えることで救われると主張しますが、「福音」に「行い」を加えると、「福音」は最早「福音」ではなくなります。聖書ではこれを「私たちが宣べ伝えなかった別のイエス」「異なる霊」「異なる福音」(IIコリ11:4)と呼んで注意を呼び掛けています。

 実際のところ「聖書の神による救い」と「宗教の救い」は別物です。こういう表現が許されるかどうか分かりませんが、聖書の神は、そもそも「ユダヤ教」や「キリスト教」など「○○教」と呼ばれる類いは意図されてなかったようです。旧約聖書中のイザヤ書には、民の宗教的な見せかけの行為に対して神は「飽きた」「喜ばない」「むなしいささげ物を携えて来るな」「耐えられない」「憎む」「重荷だ」「疲れ果てた」と容赦ない(イザ1:11-14)。

 最近、面白い話を聞きました。ある人の夢にイエスが出てきたそうです。イエスが天の入り口に立っていて、一人ひとりに質問をしているというのです。答えを聞いたイエスの後ろには、二列できていて、一つは天国へ、一つは天国ではない別の道につながっています。「いったい、何を尋ねられるのだろう?」とドキドキしていると、自分の番が回ってきました。イエスはその人に語りかけました。
「あなたは生きている間、わたしのために何をしてくれたかね?」
 その人は自分の人生を振り返り、真っ赤な顔をして答えました。
「イエス様、私はあなたのために何もできませんでした。むしろ、あなたが私のために死んでくださいました」
 イエスは、その人に示したのは、天国につながる列だったそうです。

21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

マタ 7:21-23

 多くの者の言い分を聞いてください。すべて「~をしました」「~を行った」と、自分の行いばかりを挙げ連ねています。さらにイエスは、彼らのことを全く知らないと言っています。彼らは最初から救われてなかったという意味でもあります。「教会行ってました」「洗礼受けました」は通じると思いますか?

 よい選択ができるよう、お祈りしています。

引用:
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会


○本当に信じるだけでよいのか? 何故信じるだけでよいのか?

○福音を信じたら、一人で祈れる場所に行き、この祈りを捧げてください。↓

○意外と近いかもしれません。↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?