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シニフィアンとシニフィエから考える言葉の限界

現在心理学を勉強し始めて2年目の私。
46歳にして、バッリバリの短大生です。笑。

この歳にして勉強を始め出して良かったと思えることは多々ありますが、
何よりも「自腹で学費を払っている」ことが大きくモチベーション持続に繋がっているのは確か。

元来、「お得なものが大好き」「勿体ない根性丸出し」な私。
こんなに払っているのに頭に入ってないなんて勿体ない!
モトを取るくらい勉強しなくては!と学費を振込むたびに思います。

どんな理由にしろモチベーションを持続できることは本当に有り難い。

と、話はさておき、今回は哲学のリポートで学んだ「シニフィアンとシニフィエ」について少し語らせて頂きたいと思います。

※この記事を読んで「うん?なんか違くね?」と感じた方がいらっしゃったら、ぜひ忌憚なくコメントください!勉強させて頂きます🙇‍♀️🙇‍♀️🙇‍♀️

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地道にリポートを出していて着々と単位を取っていたのに、初めて不合格になって戻ってきた、『哲学』。

このnoteでも紹介したくらいお薦めの本だったのにもかかわらず初の不合格で単位を落としショックを受けていた、『哲学』。

『哲学』… まじ深いっす…

しかしながら、その不合格のおかげで確実に1回目よりも内容を落とし込み、今回無事に単位を取り合格することが出来ました。

これを雨降って地固まる、と言うのかな。

その『哲学』の中でも際立って印象に残っているのが、
ソシュールの「シニフィアンとシニフィエ」←フランス語

シニフィアン:概念を示す言葉。「表象」「指すもの」「意味するもの」「表すもの」
シニフィエ:言葉によって示される概念そのものを指す。「特徴」「イメージ」「指されるもの」「意味されているもの」「表されているもの」

◎日本語では、シニフィアンを「記号表現」や「能記」、シニフィエを「記号内容」や「所記」などと訳すこともある。 

一部 Wikipedia

ちなみに私の解釈はこうです。

『言葉というものは、その言語の誕生した文化的背景によって色濃さが違う。その言語を使う生活の中で、価値のある存在や物質ほど、より細かく具体的な言葉が分かれているので、全く異なる文化的背景を持つ2つの言語を変換すると言葉では表しようのないズレが生じる。

と、言うことなんじゃないのかな、と。

例えば:

団子や餅や求肥は私たち日本人から言わせるとイチイチ異なる言葉があり、異なるイメージを持っていますが、外国語で訳すと何でも「モチ」。

アメリカ人の主人に言わせれば「何が違うの?」となるけれど、私から言わせたら似て非なるものに間違いなしなわけです。

「愛」や「恋」が英語では「LOVE」、抹茶や煎茶が「Green Tea」と一辺倒で訳されたり、「蛾」や「蝶」がフランス語では「Papillon」と一括りになっていたりと、
「じゃあ、何がどう違うのかうまく説明して見て?」と言われても、
微妙なニュアンスを正確に伝えるのはなかなか難しい…

逆もありけりで、日本語では「子牛」や「雄牛」や「雌牛」は「牛」でも、英語だとCalf、Ox, Kineとイチイチ言葉があります。

それだけ、その土地では価値があり、尊厳に値するものなんでしょう。

余談ですが、アメリカの目玉焼きの1つをとっても、Sunny-side up、Over-medium、Over-easy、Over-hard、turn over等とレストランでオーダーする際に細かい指示がお客さんから出されるのを見て、アメリカではウエイトレスは出来ないな…と感じたのを思い出しました。
それだけ、黄身の硬さは人それぞれで、一括りに「目玉焼き」とはできない文化なのでしょう。

と、話はここまでではありません。
さすが哲学の世界。
話はここからです!

この「言葉に限界がある=その理解にも限界がある。」
と言うのがソシュールの警鐘です。
相手を理解しているつもりでも、『何を大切にしているかで価値観の違いをうむ』ということなのだと私は思います。

センシティブな話になりますが、これこそが異国間の、宗教、戦争、政治の根っこにあるのではないでしょうか。

例えば、「森」と言われて各々イメージする森は違うと思いますが、この森という「言葉がシニフィアン」、「イメージがシニフィエ」なわけです。

アバターの世界で生まれ育った人の「森」と、ナウシカの「森」と、トトロの「森」と、シベリアの「森」は同じ「森」でも全く違うイメージではないでしょうか。

もし、この人達が同じ「森」について話す機会があったら、さて、皆さん同じ温度で話ができるのか…
恐らく小さな歪みがだんだんと大きくなり、下手すれば決裂につながるかもしれません。

そういった事態を回避できるように、言葉(シニフィアン)の限界を理解の限界にせず、相手の思いを汲み取ろうとする努力、相手が大事にしている価値感や文化を自前のシニフィアンで想像を膨らませ、どうにか自分の母国語にはないシニフィエを作り出す。

そういう前向きな姿勢がこのグローバル時代には必要なんだろうな。というのが今回の学びでした。


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