「我踊る、ゆえに我あり」
私はラジオで世界旅行をしています、とつい最近も書いたように、外国のラジオ番組に耳を傾けていると、突然ブリジット・バルドーの歌声が流れてきました。
私はこのフランス女優が大好きなため、ワンフレーズの聴き終わりを待たずして、それが彼女のヒット曲《Je dance donc je suis》であることがわかります。
この曲を耳にするたび頬がゆるんでしまうのは、大好きな人が歌っているから、という理由だけでなく、さすがフランスと感じさせるタイトルも関係します。
17世紀の哲学者ルネ・デカルトが、自著【方法序説】の中で唱えた命題「我思う、ゆえに我あり」はフランス語で表すと
「Je pense,donc je suis」
ちょっと見覚えがないでしょうか。
バルドーの歌のタイトルと瓜二つです。
それもそのはず、あのタイトルは、“考える”を意味する単語“panse”を、“踊る”を意味する“dance”に変えて「我踊る、ゆえに我あり」とパロディ化しているのです。
いかにもキッチュなサウンドと軽い歌詞のポップスに、偉大な賢人の思索を本歌取りしたタイトルをつける。
このいかにもフランス的な、スノビズムすれすれのユーモアに、いつも私は笑ってしまいます。
そして、デカルトで連想されるのは、同じ17世紀に活躍したもう一人の哲学者ブレーズ・パスカルで、この二人はよく比較されるうえ、思索の方法も似ています。
二人は“考える”ことを主軸に置いて思考を広げ、パスカルには、“考え”という直球なタイトルの名著【pensées】まであるほどです。
この【pensées】は、短い断章がやさしい文章で綴られており、現代でもよくその言葉や考えが引用されます。
「すべての人間の不幸は、部屋に一人で静かに座っていられないことに由来している」
こんな一文からは、パスカルの生きた時代にも、すでに人間の心のありようへの危機感があったことがうかがえます。
そのパスカルが、今の時代を見たら絶句するかもしれません。
だって私たちは、室内で静かに過ごす時間はおろか、ほとんど一人になる瞬間すらないからです。
私たちは便利な文明の利器に取り巻かれ、世界中をくまなく飛び交う電波によって、あらゆるところにつながっています。
そのために、いつも誰か、あるいは何かに気を取られ、ただ静かに座っている時間がないのです。
これで本当に良いのか、というひそかな疑問に答えるごとく、ロンドンでは〈電子機器の使用厳禁〉のカフェやレストランが人気ですし、それも食事時間だけに飽き足らず、とうとう宿泊中も一切の電子機器が使用できない、というホテルまで現れました。
その宿泊施設《Unplugged》では、2泊3日の滞在中は“デジタルデトックス(一定期間、スマホやパソコンなどの電子機器の利用を控えること)“のため、ただの一度も電子機器に触れることができません。
到着時にそれらをまとめてホテルに預け、3日間はメールのチェックやSNSの閲覧もおあずけです。
かわりに手渡されるのは、緊急用の旧式携帯電話と、紙の地図、インスタントカメラなど。
そして、滞在者たちは自然の中で、ただ静かに過ごすことを余儀なくされます。
3日の滞在期間の終わりには、ほとんどの人が再訪を希望するというため、そこで得られる感覚には、やはり特別なものがあるのでしょう。
本音では私もすぐさまイギリスに向かいたいところですが、そこを訪れる前に、今ここで試せることはあるでしょうか。
3日というまとまった時間を取ることは難しくとも、まずは2、3時間ならなんとかなりそうです。その間は、すべての電子機器の電源を切り、五感を使って何かを堪能するのです。
気になっていた映画を観るもよし、誰かと一緒に過ごしても、犬連れの散歩、長いお風呂、気候が良いなら景色の開けた場所でのランチも素敵です。
それこそ《Je dance donc je suis》を流してバルドーと一緒に踊り、「我踊る、ゆえに我あり」を実証するのも良いかもしれません。
デカルトやパスカルと同じく、17世紀を生きた著名な文学者のフランソワ・ド・ラ・ロシュフコーは書いています。
『自分の内に安らぎを見出せない者が、それを外に求めても無駄である』
ともするとどこまでも押し寄せてくるような日々の些事に、まずは自分自身で区切りを作ること。
そして、とりとめもないあれこれに考えを巡らせる時間を持つことは、私たちがまずそれぞれに、最優先で取りかかるべきことなのかもしれません。
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