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バグダッド・カフェとカイロス時間

いかにもお洒落などこかのカフェや雑貨店、あるいはインテリアショップで。
羽飾りつきの帽子をかぶった豊満な女性が高いハシゴのてっぺんに座り、給水タンクを掃除している、というポスターをご覧になったことがないでしょうか。

背景は真っ青で、上部にはこんな文字が浮かんでいたはず。
BAGDAD CAFE


2008年に公開された、パーシー・アドロン監督による映画『バグダッド・カフェ』は、『ティファニーで朝食を』と似通ったところがあるかもしれません。

いずれも、ヒロインがアイコニックで、そのイメージがあまりに有名すぎる。主題歌を誰もが耳にしている。ストーリーもよく知られているわりに、実際の作品はほとんど観られていない。

どちらの作品も、いわゆる“お洒落映画”にカテゴライズされがちで、内容そのものに触れる人や評論が少ないのもさみしいところです。

では私はどうかというと『ティファニーで朝食を』は3回以上は観ているわりに、『バグダッド・カフェ』は、たった一度観たきりです。
私にとって、この作品がなぜ名作と呼ばれるのかは、長いこと謎でした。


砂漠のモーテル兼カフェにふらりとやって来たドイツ女性が、怒りっぽい女主人やその家族、他のお客たちと交流する。
以上。

最大限に簡略化したあらすじだと3行ですんでしまう内容と、ゆるやかな進行ペース、気怠い音楽。
画面に現れるのは砂にまみれた殺風景な土地と、ほこりっぽい室内のみ。

ディクレクターズカット版が20年ぶりに公開〉というニュースを受けてこの映画を観直してみようと思ったのは、いわばちょっとした出来心からです。
それが、まるで別の映画かと思うほど、あまりに魅力的なのに驚きました。


もちろん映画自体が変わったわけでなく、変化したのは私の方です。
昔よりは人の心の機微もわかるようになったから、というよりおそらく最も大きかったのは、ストーリーを追うことをやめたからです。

以前は映画を観るとなると、手当たり次第に数をこなしていくような、いわゆる消化型の鑑賞が常でした。
けれど今はそういった見方はまずしませんし、それよりも、映画の中で登場人物たちと、つかの間その世界を生きられることを重視します。
だからこそ『バグダッド・カフェ』の受け取り方も、以前とは正反対なものになったのです。


この映画は、時短とはとことん相性の悪い作品です。
ストーリー自体が単純ですし、主要な登場人物はわずか数人。現実にもありそうなくたびれたドライブインで起こる出来事は、風変わりながらとても静かで、爆発も宿敵との対決もありません。

これを倍速や数秒飛ばしで観た場合、その人はきっと、以前の私と寸分違わぬ印象を持つはずです。
ここでは何も起こっていない、何が面白いのかわからない、と。


かつてスタジオジブリ取締役鈴木敏夫さんが、インタビューでこんなことを話していました。

我々の映画を早送りして観るほど無駄なことはない。画面の一秒一秒に、追い切れないほどの情報が込められているからだ。早送りしてそれが掴めるわけがない

これは、映画を早送りで観ることへの是非の一つの解答であるように思います。

タイムパフォーマンスを意識した視聴スタイルが必ずしも悪いというわけではなく、世の中にはそれでは捉えられないものがある、というだけです。
ただストーリーを追い、確認作業としての鑑賞では落ちてしまうものがあるのです。

高評価の映画を時短で観ることは、観たというアリバイづくりや、その映画の情報を得ることにはつながっても、物語に没入しないかぎり、表層的なものしか得られません。


そこで流れ、過ごす時間は古代ギリシャの時の表し方でいうクロノスです。
クロノスは現世の価値観そのものの時間であり、目に見える成果を上げ、有効に使うことを奨励されます。

対するカイロスは、『バグダッド・カフェ』の登場人物たちと同じ気持ちで、絵や風景、手品に魅了される時間です。
それは能率よりは味わい、体験することを尊びます。

クロノスが〈do/する〉時間なら、カイロスは〈be/ある〉時間です。
クロノスはいかにその時間を能率的に使ったかで評価を測られますが、カイロスで問われるのはいかにその時間を楽しみ満喫したかです。

それは全く別々の時であり、二つの時間は私たちにそれぞれ別のものを授けます。

現代の社会はクロノスがあまりに優勢であり、いつも時間が足りないばかりで疲弊していく中、カイロスの時間にとどまることは、極めて贅沢というだけでなく、心ある生き方に不可欠だと思えます。


もちろん、どちらをより優位に置くかは個人が決めるべきことですが、私にとって、かつてその価値を十分に掴み損ねた映画との再会が、幸福なものであったのは確かです。

映画は1時間48分の長さでしたが、観終わって少しも時間を消費してしまったという感覚はなく、むしろ自分の中に何かが確実に上積みされた実感がありました。
それは、カイロスの豊かさに存分に浸れた時間でした。

かつてガブリエル・シャネルがお金について語った言葉の“金”の部分を、そのまま“時間”に置き換えれば、カイロスについてのこれほど的確な表現はないと思います。

時間を節約するだけが能ではない。使いながら豊かになる方法がある

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