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第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (六)

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<六>


 「お手伝いできなくて申し訳ございません。情けないことですが、どうにも濡れるのは苦手で……平気なものもいるのですが……」
「気にしないで。わかっているわ」
「ありがとうございます。それで、あちらで若さまがお待ちですので、いらしていただけますか。まずは、お庭をご覧いただきたく」
「庭? ちょっと待ってね」

 咲保さくほは手早く着物の裾を直すと、浜路はまじとともに座敷へと向かった。すると、廊下で、起きてきた母に行き合った。連日の外出の疲れが出たのだろうか、幾分、顔色が悪い。

「なんやの、朝早うから騒々しい。あら、浜路はんまで。どないしました」
「お母さま、おはようございます」
「お騒がせして、たいへん申し訳ございません。されど、ただいま由々しき事態にて、奥方さまにもぜひご覧になって頂き、早急にご判断願いたく。お時間を頂けないでしょうか」

 礼儀正しく腰を折る浜路の、柔らかくもいつもより真剣な様子に、咲保も初めて余程のことが起きたと気づいた。

「ええですけれど、なんぞございましたか」
「ありがとうございます。どうぞ、こちらへ」

 三人連れ立って、座敷に入る。

「お母さま!」

 しまった、と兄の顔に書いてあった。

桐眞とうま、あんた、昨日から何をコソコソしてますの」
「いや、別に……」
「なにもなんてことはあらしませんやろ。こんな朝から騒いで。まさか出无いずもでなんぞ粗相そそうしたんと違いますやろな」
「それより奥方さま、今はまずこちらを」

 小言が始まるより先に浜路が進み出ると、庭に面した障子を開け放った。

「まあ……!」

 思わず、咲保は声を上げた。
 木栖きすみ家の座敷は、客を迎えるに相応しく南向きにつくられ、小さいが目を楽しませるための庭に面している。庭は築山ちくざんを中心に灯籠などが配置された、枯山水かれさんすい風の庭だった。ところが、今、ガラス越しにだが、目の前にある景色は、すっかり池庭になっている。老松ろうしょうと椿が植えられた築山は島と化し、石灯籠は半分水没した状態だ。黄色い花を咲かせていた石蕗つわぶきなどは、完全に水没して見えない。

「一体、何が起きてますの?」

 母は目をみはったものの、冷静に浜路に問いかけた。

「これは、おそらく玄武げんぶの仕業によるもので、一見、普通の池のようですが『あわい』の門です」

 浜路が答えた。

「玄武?」
「昨日、桐眞さまに岡惚おかぼれをしたどこぞの玄武より、石の恋文が送られて参りました。その石に隠して施されてあったであろう『あわい』の門となる仕掛けにより、今、このような有り様に」

 はっ!?

 聞いた母は、あんぐりと口を開けた。

「とうまっ!」

 母の大声に兄は首をすくめて、気まずそうに目をらした。

「どこの玄武かは、まるおさんや暁葉あけはさんも探している最中ですが、今の問題はこの入り口をどう塞ぐか、です」
「なんぞ方法がございますのんか」
「方法自体は簡単です。この『あわいの門』の要となる石を拾って封印すれば、おさまるでしょう。ですが、問題も一つございます。この『あわいの門』は、すでに相手の支配下にありますので、招かれぬ限りは私を含めた他のモノも人も、容易に立ち入れないようになっております」

 石はすでに水の中に沈んでいる。しかし、そこはすでに玄武の領域だ。それを拾うとなると――皆の視線が桐眞に向かった。

「話になりませんな」

 母がぴしゃりと答えた。

「わざわざ罠にかかるような真似、させられまへん」
「けれど、原因は私ですから、」
「アホなこと言い!」

 桐眞に最後まで言わせることなく、母は蓋をした。

「あんたは木栖家の大事な後取りえ。得体の知れんモノに付き合わされて、一生を棒に振るか知れんとわかっていて、させられますかいな。今、あんたのすべきんは、無事でいることどす。これ以上、これに関わり合うたらあきまへん」
「しかし、じゃあ、どうすれば、」

 強風が吹いたのか、家の建具がガタガタと鳴った。

「桐眞、あんたは片付くまで外に出んよう、離れで大人しゅうしておきなはれ。咲保、ええな」
「はい、お母さま」

 咲保がうなずいたその時、いっそう激しく戸という戸、柱という柱が大きく震えた。地震が起きたかのようだ。だが、地面は揺れておらず、異変であることに気づく。何が起きたのか、となかおびえながら辺りを見回していると、突然、雷が鳴るような勢いで、閉めたままだった庭に面したガラス戸が大きく開いた。ごうっ、と地鳴りに似た音をたてて風が吹き込み、まとめていた髪を大きく乱した。小袖が激しくはためき、あおられた足元も揺らぐ。目を開けていられない強風に、思わず風下に顔を背ければ、兄の名を呼ぶ、母の叫び声があった。
 かざす袖の影から見えたのは、池から伸びた縄状になった水が、十重とえ二十重はたえに桐眞の周囲を取り巻くと、抵抗するより先にその身を縛り上げた。あっという間の出来事だ。うわっ、と兄の悲鳴があがった時にはすでに体が持ち上げられ、魚を釣り上げるように家の外に放り出されていた。同時に、池になっていた水が、底にあった栓を抜いたように一気に引いていくのが見えた。

「おにいさまっ!」

 咲保が声をあげるその脇で、ふしゃあっ、と猫特有の高い威嚇いかくの声をあげて、巨大な白虎柄の猫に変化した浜路が、跳躍ひとつで水縄の根本を飛沫しぶきを撒き散らしながら横薙よこなぎに払った。刹那せつな、青い火花が飛び散る。しかし、それも、水でできているだけあって、すぐに元通りだ。水の縄は一瞬は動きを止めたものの、今にも桐眞を池の中へと引き摺り込もうとしていた。
 それでも浜路は諦めず、しなやかな尾が降りかかる水を切り、素早く右、左と四肢の爪を振るうたびに生じる閃光は眩しく、鋭い。しかし、水面に足先が叩きつけられた瞬間、身体ごと大きく弾き飛ばされた。と、同時に、桐眞の胸元から小さな丸い物体が、座敷の咲保の足元まで飛んできた。蘇芳すおうと名付けられた子猫だ。猫らしく、空中で体勢を整えて難なく着地するが、桐眞ひとり、今にも水の中へと引き込まれていくところだった。
 その時だ。追いすがろうとする咲保の脇を、もう一匹の猫がすさまじい速さで駆け抜けると、広縁ひろえんから跳ねるように飛び出し、桐眞にとりついた。

「みぃっ!」

 モノでも人でもない木栖家の三毛猫は、弾かれることなく桐眞と共に渦巻く水の中に引き込まれ、消えた。後には、乾いた玉砂利が敷き詰められた元の庭に、木箱がひとつ落ちているだけだった。

(嘘……)

 咲保は素足のまま庭に出た。石の凍るような冷たさに爪先も痛んだが、気にしなかった。あれほどに鍛え、強いはずの桐眞がなす術もなく連れ去られたことが、信じられない。地面の置かれたままだった、箱を拾い上げた。
 糸で縛られた石は黒々として、なにも変わって見えなかった。本当に、ただの石ころにしか見えないし、なにも感じない。

(うそ……うそ……こんなこと……)

 あり得ない、と心臓が早い音でがなり立てる。

「おのれ……!!」

 腹の底から搾り出すような声があった。

「おのれ、おのれ、おのれ、おのれっ!! 卑怯者ひきょうものめがっ! 斯様かよう専横せんおう! 許すまじっ!」

 髪から水を滴らせ、青灰色のワンピースもぐっしょりと色を変えた浜路がいきどおった。瞳は大きく開き、針のような瞳孔で地面をにらみ据え、苛立たしく長い尾が叩きつけられている。濡れたことすら、気にならないようだった。みしみしと、松の木の幹が音をたててきしんだ。

「下等な物の怪にも劣る所業! 万死ばんしに値するっ! 許してなるものかっ!! 分を弁えぬ愚か者ども、一匹残らず殲滅せんめつしてくれるっ!!」

 周囲に火花を散らしてすさまじい怒りを見せる浜路を、咲保はただ、ぼうっと見つめることしかできなかった。どん、とその怒りの勢いに押され、尻餅をついた。ゴツゴツとした玉砂利の感触が後手についた掌に伝わると同時に、指先に裂ける痛みが走った。

「かあさまっ!」
「お母さまっ! 姉さま、お母さまがっ!!」

 だが、耳に飛び込んできた二つの声に、咲保は、はっ、と我に返った。広縁で、ガラス戸に縋るようにぐったりと蹲る母が目に入った。

「おかあさまっ!!」

 慌てて駆け寄れば、気を失っているようだ。

「おねえさま、何があったのですか? すごい音がして……お兄さまは……?」

 母に取りすがり、不安げな眼差しで瑞波みずはが見上げてくる。磐雄いわおからは、ぐっと睨みつける視線だけを感じた。が、咲保は弟と妹になにを答えることもできない。

「とりあえず、お母さまをお部屋に。磐雄、急いでお医者さまを呼んできてちょうだい。瑞波は、きゑさんたちを呼んできて」

 弟が素早く部屋から出ていった。

「姉さま……お母さま、大丈夫?」
「大丈夫よ。瑞波、きゑさんを呼んで。お願い。お母さま、立てますか?」
「咲保……桐眞が……」
「少しお部屋でお休みになられて、ね? お兄さまならきっと大丈夫よ……」

 心にも思っていない慰めを口にする。他に何を言えばいいのか、咲保にもわからない。何も考えられなかった。今は目の前のことを対処するしか思いつかなかった。浜路が呼んだのだろう多くの子猫たちが脇を走り抜けていく中で、今にもへたり込みそうな気持ちをふるい立たせ、母を立ち上がらせた。母を支えながら、一歩一歩をそろそろと進む。

「お嬢さま、いったいなにが……まあ、奥様!」

 ばたばたと廊下を駆けてきたきゑと六蔵りくぞうが、驚きの声をあげた。

「お母さまをお部屋に連れて行ってお世話をお願い。今、磐雄がお医者さまを呼びに行っているわ」
「かしこまりました。あんた、お布団のご用意を。奥様、さあ、こちらへ」

 母をきゑに託すと、所在なさげに廊下の端に立ちすくむ瑞波が目に入った。

「瑞波、お願い。お母さまは、今とても心が弱っているの。お医者さまが来るまでお母さまのそばについていて差し上げてくれる?」
「……はい」
「なにがあったか、ちゃんと後で説明するから。お母さまをお願い」

 そう言えば、唇を食いしばった表情で妹は黙ってうなずき、母の部屋へと向かっていった。ぼぉん、と時を知らせる鐘の音が聞こえた。

(ああ、朝ごはんの支度がまだだったわ……学校にも行かせないと……)

 急がなければ。しかし、こんな状態では二人とも行きたがらないに違いない。家にいてくれた方が安心だ。それにはまず、学校に休みの連絡を入れなければ。

(それよりも、お父さまにお知らせしないと……ああ、無理だわ。もう儀式に入っている時間)

 午前中一杯は新嘗祭にいなめさいが続いている。まるおも暁葉あけはも、あと数時間は知らせることすら無理だ。やはり、学校に知らせる方が先だろう。しかし、咲保は受話器に手をかけたところで、立ちすくんだ。
 
(でも、なんて……? なんて言えばいいの?)

 どうしよう。眩暈めまいがする。吐きそうだ。
 桐眞がモノにさらわれて、母が倒れたから――そんなこと言えるわけがない。気が触れたと思われる。わかっている者に伝えれば、醜聞しゅうぶんでしかない。嫡男ちゃくなんがモノに攫われたなどと広まれば、家を継ぐことができなくなる。力量不足と言われるならまだしも、モノに攫われて無事だったという話はないのだから――神隠しと呼ばれ二度と戻ってこないか、滅多になく帰ってこれたとしても精神に異常をきたしている、というのが通説だ。たとえ無事に帰ってこれたとしても、陰でなにを言われるかしれない。信用も失う。どんなに優秀な者であっても、起きた事実がすべてを台無しにする――それだけの事態だ。絶対に他家に知られてはならない。 


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