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第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (十三)

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<十三>


(四天王かしらね?)

 考えられるのは、様子を見に水面まで出た鯉が門を閉じようとしたかしたために敵と見做みなされ、増長天ぞうちょうてん辺りがげき調伏ちょうぶくしようとしたのかもしれない。

(ざまあみろ、だわ!)

 意地悪く咲保さくほは笑うと、たもとから透明な珠を取り出した。

(そろそろいいかしらね……)

 潮乾珠しおふるたま、と口の中で唱えれば、糸をよりり合わせたような細い渦が生じた。右手の中の珠に力が加わる。そうは見えないが、珠はぐんぐんと大量の水を吸い込んでいるようだ。下へと向かう速さが加速した。

(ひぃっ!)

 咲保の顔の前に、猫の人形が漂った。上から押されるその勢いの強さに、珠を手放しそうになった。咲保は膝を曲げて抱え込む姿勢で、胸の前で潮乾珠をしっかりと両手で握りしめた。

(大丈夫なの、これ……?)

 地面に激突しやしないだろうか、と不安になる。ふ、と立ち上る渦の向こうに、白い鯉の魚影が見えた。四天王は仕損じたらしい。だが、恐慌きょうこう状態におちいっているのか、癇癪かんしゃくを起こしているのかわからないが、もの凄い勢いであちこちへと出鱈目でたらめに泳ぎ回っていた。こちらを気に留める様子もない。

 下へ、下へ――。

 沈むというより、落ちる感覚だ。身体も縦に伸びる。

「ひゃっ!」

 急に足元が頼りなくなったと思った瞬間、目の前がひらけた。それと共に、落下速度が急に落ちた。周りを見る余裕もなく、突然、ドン、と下半身に体当たりされる感覚があった。

「みぃっ!? なんでこんなところ、あ、いた、痛、痛いっ!」

 みぃも必死なのだろう。はかまの上からでも食い込む猫の爪に引っ掛れ、咲保は叫んだ。手に神器じんぎの珠を抱え、腰に猫を引っ付けたまま、咲保は地面に落下した。落ちる寸前、みぃは飛んで離れた。
 幸い、大して高さはなかったのだろう。渦にぶら下がる形で転がることなく、座った姿勢で着地することができた。お尻とすねを少々打ったぐらいだが、まるお仕込みの脛当てのおかげだろう、さほど痛くはない。それにしても、酷い目にあった。事前に注意のひとことが欲しかったと思う。
 とんび座りの姿勢で、咲保は上を見上げた。薄い水の膜が揺蕩たゆたっていた。光に反射するさざなみが不規則な模様のようで、綺麗だ。そこから真っ直ぐ撚り糸のように細い渦が降りていて、咲保の手元に繋がっていた。眺めていると、漣は急速に範囲をちいさくし、そのうち消えた。見上げる遙か上空に、黒い点のような穴が見えた。

(あそこから来たかしらね?)

 ここまでの間にどれほどの水があったのか。家の近くの貯水池ひとつ分ぐらいの量はあるだろうか。或いは、それ以上かもしれない。その水すべてが、咲保の手の中の小さな珠の中に収められている。

「さすが神器……恐ろしいわ。あ、みぃ! よかった、無事だったのね」

 すこし離れた位置からこちらを伺う三毛猫の姿に、咲保は喜んだ。が、見るからに不機嫌そうな、ちろり、と口から舌先を出した猫の表情に、微妙な気持ちになった。

「……わかっているわよ……臭いんでしょ……」

 鯉への嫌がらせの一環として身につけた匂い袋のせいだ。効果は実証されたようだが、弊害へいがいも大きい。乙女心がえぐられる。身を削る思いをしてまで嫌がらせする、というのは、やる意味があるのかとはなはだ疑問だ。
 咲保は、それ以上言うことなく、腰に縛りつけていた風呂敷を解いた。

「煮干し食べるでしょ。足りないかもしれないけれど、今はこれで凌いでね。帰ったら、ちゃんと用意するから」

 どうぞ、と紙に包んだ煮干しの山をみぃに差し出した。すると、よほど腹を空かせていたのだろう。みぃは飛びつくようにして、煮干しを撒き散らしながらがつがつと食べ始めた。横に小さな皿も出し、水も注いでやる。この様子に咲保も空腹を感じ、母が持たせてくれた握り飯をひとつ口にした。

「おまえも、よく頑張ってくれたわね。帰ったら、ご馳走あげるわね」

 なにかを言いながら食べる飼い猫を見守り、礼を言って立ち上がった咲保は、首を巡らせた。

「ここはどこかしら?」

 山の中らしい緑の豊かなひなびた場所だ。水や、苔や枯葉を含んだ土の匂いが濃い。

(お兄さまは、多分、あそこね)

 続く道の先、小高い場所に建つ、黒瓦屋根の屋敷が見えた。庄屋や名主などが住んでいそうな、田舎にそぐわないほどの立派なお屋敷だ。水の『場』が崩壊したにもかかわらず、それ以外はしっかりとして、崩れる気配も感じられない。『場』を支配するモノの力が安定しているのだろう。なぜ、と疑問が湧く。
 改めて考えてみると、水底から現れたと言うことはここも『場』であることに間違いはないだろうが、これだけ景色が変わるというのも違和感を感じる。変える理由も思いつかない。てっきり、底までずっと水中が続くと思っていた――鯉が好む環境として。

(妙だわ……玄武げんぶの『場』なのかしら? いいえ、それはあり得ない)

 例外なく、違うモノ同士の『場』は接触できない。間に『あわいの道』を挟む必要がある。しかし、今の状況からは、『場』の中に鯉の『場』があったようにも思える。

(それに、肌の感覚は似ているのよね……)

 見た目ではまるっきり違うが、目には見えない受ける雰囲気や印象が、水中の『場』とよく似ていると感じた。『場』に反映される、主たるモノの個性とでもいうのか。一度会った、玄武の気配とはまったく違う。だが、一部を崩壊させたにもかかわらず、ここまでそれ以外の『場』を安定して保っていられるというのも変な話だ。どこかしらに歪みが出そうなものだが、それもない。

(よくわからない……)

 わからないことを考えても仕方がない。咲保は、それ以上追求することをやめた。神やモノなどに関しては、理屈では通用しないことの方が多い。そういうものだ、と納得するしかない。

(鯉はどうしたのかしら?)

 落ちたのはわかる。気配もする。普通に考えて、水がなければ鯉は弱る。だが、モノで『場』の中であれば、どうなのか――咲保は、まだ食べている最中の飼い猫から少し離れて、辺りを見回ってみた。

「あっ!」

 咲保が落ちた場所からさほど離れていない道の脇の草むらに、横たわる真っ白な鯉を見つけた。三尺九十センチメートルほどありそうな巨大な鯉だ。ぴくり、とも動かない。

(死んでる?)

 否、モノに生死を問うなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。ただ、気を失っている事は、間違いなさそうだ。

「思ったよりも、大きいわねぇ……」

 刺身にしたら、何人前分ぐらいになるだろうか。だが、さばけないことはない。

(鯉って、酢味噌すみそで食べても臭みが残っていたりするし……鮮度や泥の抜き具合にもよるのだろうけれど。そういえば、鯉こくなんていうお料理もあったわね。信州の方だったかしら。作り方も知らないけれど、どんなお味なのかしら。そもそも、食用の鯉とそうでないものとは、どこが違うのかしら……?)

 そうは思ってみても、思うだけだ。包丁は手元にないし、『場』にいる限りは、やってみたくても出来ない。

(……とりあえず、今のうちに縛っておきましょう)

 咲保は腰に下げた紐を外し、両手でぴんと張った。

(ええと……お供え用の縛り方では、動かれた時に外れそうよね……)

 あれは見た目重視だ。拘束こうそくには向かないだろう。しかし、魚を動かないようにする縛り方など、咲保は知らない。

(まあ、いいわ。適当にやってしまいましょう。よいしょっ!)

 あいた口に縄を引っ掛けるところから始まって、要所要所で結び目を作りながら、ヒレなどに縄を引っ掛けていく。半分ほど作業したところで、鯉が目覚めた。尾鰭おびれを地面に叩きつけて暴れ始めた。咲保は、鯉の身体を草鞋わらじで踏みつけ、無理やり押さえ込んだ。尾鰭がさらに大きく繰り返し地面を叩いた。

「暴れても無駄ですわよ。この草鞋には、千曳岩ちびきいわの欠片が仕込んでありますの。ええ、あの黄泉平坂よもつひらさかへの道を封印している岩の。一緒に不動明王ふどうみょうおうの札も仕込んでますので、その辺の物の怪やあやかし程度なら、踏みつけるだけで祓えますのよ。あなたは……あら、うろこが少し焦げたみたい……痛くてらっしゃる? でも、すぐに治りますわよね。少々のことは我慢してくださいませ」

 抵抗し、暴れる鯉を力まかせに押さえつけてぐいぐいと縄を引っ張り、跳ねる尾鰭にもぐるぐると巻いて、身体が反るようにして結んだ。

「この縄は、淤美豆奴神おみづぬのかみさまよりお分け頂いたものなんですって。淤美豆奴神さまはご存知かしら。神話には出ていらっしゃらないのだけれど、素戔嗚尊すさのおのみことさまと大山津見神おおやまつみのかみさまの玄孫やしゃごにあたる方ですのよ。出无いずもの地が狭く感じたものだから、あちこちから少しずつ岬を切り取って、綱で引っ張ってきて縫い合わせた柱と伝わっておりますの。すごいとお思いになりませんこと? なされたこともですけれど、土地ごと引っ張っても切れない綱って。ですから、そんな柱の綱を、たかがモノ程度のあなたがどうやったって、切れるはずがございませんの。諦めてくださいまし」

 うふふ、と咲保は口先だけで笑った。縄をみながら、閉じない口を必死で動かす鯉を見下ろした。

「私は非力な人間の女でございますから、こういうものに頼ることでしかあなた方に対抗できませんの。ごめんあそばせね。悪くお思いにならないで。あなたには、とりあえず人質……いえ、モノ質になっていただきましょう。あら、やっぱり重たいわ。すこし軽くなっていただけると、ありがたいのですけれど」

 咲保は尾鰭側の余った綱を持つと、鯉を引き擦って歩き始めた。たまに、小石などに鯉が引っかかって歩きにくいが、気にしないことにした。みぃのところまで戻ると、食べ終わったところだった。みぃが鯉の上に飛び乗った。

「みぃ、かじっちゃだめよ。おなかこわすから」

 みぃも、そのつもりはなかったらしい。乗り物として楽しようとしただけのようだ。飼い猫がちゃんとついてくるか確認のために後ろを見ると、乗り心地が悪かったらしく、すぐに飛び降りていた。だが、それはそれで面白かったようだ。飛び乗っては降りを繰り返しながら、咲保についてきた。
 坂道に差し掛かろうというところで、見知った顔に出会った。

「ごきげんよう。クロタケさんでしたかしら。それとも、玄武さまとお呼びすればよろしいかしら?」

 表面上だけはにこやかに挨拶をすると、書生姿の玄武は、あからさまに顔をしかめた。

「娘……何をした……それに、その臭いはなんだ!?」

 その言い草に、咲保も不愉快さを隠すのをやめた。

「なにをしたもなにも、私、お兄さまをお返しいただきにあがりましたの」

 足元の鯉を片足で踏みつけると、真正面から人の姿をしたモノをにらえて言い放った。

「このくらいの意趣返いしゅがえし、当然でございましょ?」



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