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第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (十)

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<十>


◇◇◇

 この状況で、どうすればいいんだ――?

 自身の置かれた状況に、桐眞とうまは戸惑った。

「なぜ禰古萬ねこまがっ、禰古萬がいるのっ!? どこから入り込んだの! ああ、なんと恐ろしい……ゲン、ゲン、お願い、早くなんとかしてちょうだい!!」

 猫を古い呼び名を叫びながらおびえるのは、墨一色の打掛けを身につけた美女だ。部屋の最も遠く離れた隅の壁に張り付くようにして、長い黒髪を振り乱し泣き叫んでいる。美醜びしゅうにさほど敏感でない桐眞でも、ひと目で美女と認めるほどに美しい女人にょにんではあるが、いかんせん、こうも泣き乱れていては形無しだ。一気に熱も冷める。
 そして、縛られ座る桐眞の前には、みぃが四肢を踏ん張ってうなり声をあげていた。殺意まるだしのお怒り状態だ。鹿肉の一件でも見せた、触れようものなら血を見る。
 その目前にいるのは、玄武げんぶ。体長が四尺百二十センチメートルはあろうかという、どっしりとした大きな黒い亀で、尾が蛇だ。その蛇が長い身体をくねらせ、こちらに向かって赤赤とした口を大きく開き、牙をむいている。亀の方の頭はじっとして、なんの反応もない。たまに瞬膜しゅんまくが動いて瞬きするところで、置物ではないと確認できるぐらいだ。
 両者にらみ合い。相撲なら水入りになりそうな膠着こうちゃく状態が続いた。


 水の中を落ちて底についたと思いきや、いきなり水中から抜けて普通の空間になったのには驚いた。冬の日の曇りの日の昼下がりといった明るさで、暗い道中に慣れていたせいで少し眩しく感じた。空気はひんやりとして、少し肌寒い。頭上には空ではなく、今し方落ちてきたらしい水の面が波打っている。見まわせば、どこか山間部の集落を思わせる風景だ。杉やまきが立ち並ぶ山が取り囲み、大岩がごろごろと転がって見える。どこからか、ちょろちょろと水の流れる音も聞こえた。
 拘束こうそくする水の縄はそのままに宙に浮いた状態で、桐眞は一軒の屋敷の中に引き込まれた。そして、だだっ広い板の間に着地した。ことほか丁寧ていねいな扱いだったのが意外だった。するすると、音も立てずに開け放たれた障子が閉められ、外と遮断される。
 『場』の影響か、着物も濡れていない。相変わらず胴回りは縛られたままだが、冷たい板の上に座るが、久しぶりの床の感触に、少しほっとした。
 そこは豪農ごうのうの屋敷の一室といった感じの場所で、黒々とした柱や太いはりの渡る落ち着いた空間だったのも意外だ。ひとつも異界らしいところがない。物音ひとつなく、とても静かだ。
 膝の上のみぃが、辺りを不思議そうに見回した。

「大丈夫だからな、みぃ。大丈夫だ」

 そう言い聞かせる。みぃにも自分にも。みぃは、おとなしくあぐらをかく間に気配を殺すように、じっ、と収まった。撫でられないのが残念だ。未だ不安はぬぐえないが、すぐに何かをされるというわけでもなさそうだ、と判断できるだけ落ち着いていられる。

高天原たかまがはら神留かみとどまましま皇親すめみおや神漏岐神漏美かむろぎかむろみみことをちて、八百萬神達やおよろずのかみたちつどへに集へたまひ……)

 小声で、これまで何十回と繰り返した大祓祝詞おおはらえののりとを暗唱する。この場にあっては意味のないものであるが、唱えるだけで平静になれる。気持ちが焦りそうになると,平方根を延々えんえんと暗唱して落ち着くという大学の友人もいるが、そんな感じだ。

「なんと、おなつかしい。ずいぶんとお探し申し上げました」

 細い風が吹いた。衣擦きぬずれの音と共に女の声がした。目線を上げた桐眞は、思わず息を呑んだ。墨一色の着物に打掛を身につけた女が、いつの間にか目の前に立っていた。ところどころに使われている赤の差し色が、いっそう鮮やかだ。

「あれからどれだけったのやら。短かったようにも長かったようにも感じますが、その祝詞の声の心地よさは、以前と変わらぬもの、いえ、それ以上と嬉しく思います」

 くっきりと浮かぶ、れたすももの色をした唇から発せられる言葉は、離れていても甘い香気こうきが漂ってくるようだ。前髪を櫛で留めるだけの黒髪は、艶やかに淡く光りながら床へと流れ落ちている。色白の顔に、涼やかな切れ長の瞳と影の落ちる長いまつ毛、整った柳眉りゅうび。歳の頃は桐眞と同じかすこし下ぐらい。過剰にえりを抜いているわけでも、気崩しているわけでもない。だが、禁欲的な黒を纏いながら、その下にあるだろう肢体が容易く想像できるなど、初々ういういしくも妙に艶かしい。

(まずいっ!!)

 桐眞はとっさに顔を伏せた。これは人外の美しさだ。つまりは、モノだ。本性を隠し、惑わすモノ。見てくれに騙されてはいけない。一見、ねじ伏せるにたやすそうな手弱女であっても、一瞬で魂を刈り取られかねない。

妖狐ようこたぐいか、それとも、女郎蜘蛛じょろうぐもの類か……)

「ご遠慮召されますな。また、お声をお聞かせくださいまし」

 フシャーッ!! 

 その時、猫の柔らかい毛が桐眞の顔を叩いた。みぃが足の間から瞬時に飛び出すと、切り裂かんばかりの怒りの声を上げた。尾が倍の大きさにふくれ上がっている。

「禰古萬っ! なぜっ!?」

 耳をつんざく女の悲鳴が上がった。みぃは膝の上にずっといたのに、これまで目に入っていなかったようだ。ざっと音を立てて、衣擦れの音が飛び退る。

「ゲン、たすけてっ! 禰古萬がいるのっ!」

 ずしん!

 とたん、大きな板鳴りの音と共に、桐眞の身体が上に跳ね上がった。みぃの身体も彼の頭よりも高く飛び上がっていた。どこにいたのか、目前に大きな亀、もとい、玄武が上から降り落ちてきた反動だ。女性の身を守るかのように、立ちはだかっている。
 睨み合う中、うわおう、と一際大きな声でみぃがえた。続いて、気炎きえんを吐くような鋭い威嚇いかくの声をあげた。応えるように蛇が鎌首を揺らし、口から何かを吐いた。ぱっ、とみぃは素早く飛び退き避けたが、桐眞の足元から三寸九センチメートル先の床板に、黒い穴が空いた。ぞっとした。

「ダメよ! ヌシさまが怪我をしてしまう!!」

 部屋の奥から、悲鳴のような叫び声が言った。たまらず、桐眞も声をあげた。
 
「みぃになにかしてみろっ! おまえたちを、絶対に許さないからなっ! 何をしてでも討ち取ってやる!」
「そんな……ひどい……」

 美女は崩れ折れるように床に打ち伏せると、しくしくと泣き始めた。困惑するように、亀と蛇の頭がうねり、女と桐眞を見返した。睨みつける桐眞の元に戻ってきたみぃだけが、勇ましくも威嚇の声をあげている。
 飼い猫のなんと勇敢なことか。生き物としての本能なのかはわからないが、自身の何倍もの大きさの敵に向かって小さな身体を膨らませ、真正面から対峙たいじしている。だが、耳が後頭部に張り付くように伏せられている。怖いに違いなかった。

(情けない……!)

 戦いの場には慣れている。単騎たんきで、この玄武よりも手強いだろう相手を仕留めたこともある。周りからは強いとも言われてきたし、その自負もあった。しかし、今はどうだ。何もできないでいる。弱いものを盾にして、何をしているのか。桐眞は、悔しさに奥歯を噛み締めた。

「みぃ、もういい。おいで」

 『あわい』でモノには傷ひとつつけることができない――その原則がある。だが、生き物はそうではない。このままだと、みぃは怪我をする以上のことに成りかねない。守ってやらなければ――しかし、そんな気持ちが猫に通じるはずもなく、唸り声が返ってくるだけだ。

「みぃ、怪我をする。こっちに来い」

 どうやら、相手に桐眞を傷つける気はないようだ。膝の上に乗ってくれれば、守ることも可能だろう。みぃにも彼の声は届いているらしく、耳が動いている。舌を鳴らして呼んでも、振り返りもしない。

(くそっ、せめてこいつさえ解ければ……)

 拘束する水の縄は、どう抜けようともがいても、形が変わるだけで一向に緩みもしない。それでも、少しだけ腕の位置をずらすことに成功した。手首を返し、自分の太腿の側面を叩いて呼んだ。

「みぃ、おいで。みぃ、こっちだ」

 それでもやはり、気を引けるものではなかった。すると、それまで迷うようにうごめいていた亀と蛇の首が、ぴたり、と止まった。亀の方がゆっくりと口を開けた。
 
 ぱしっ!

 みぃが、前脚で何かを叩く仕草を見せた。飛沫しぶきが飛んだ。続けて、もう一度。素早い動きに、三度目でやっと目が追いついた。亀の口から細い水の縄が出て、すぐに引っ込めていた。紐にじゃれつかせて猫を遊ばせているようだった。

「みぃ、ダメだ! こっちに来い!」

 だらり、と床に落ちて微妙に揺れる水の紐を狙い、飛び掛かる姿勢でみぃが体勢を低くした。尻が左右に揺れている。何度も呼びかけてはみるが、耳が動くだけで、集中は途切れない。まったく猫とは、肝心な時に限っていうことを聞かない。猫のこういうところが嫌だ、と八つ当たり気味に思う。なにもしてやれない焦ったさに、桐眞はいらついた。

「みぃっ!」

 ついに飛びかかったみぃが、水縄に捕えられた。暴れる胴体をぐるぐる巻きにされ、持ち上げられる。ぴしゃん、と勢いよく音を立てて、障子が大きく開け放たれた。囚われたみぃは、そのまま勢いをつけて外に投げ出されてしまった。

「みぃっ!」

 高く投げ出された小さな肢体したいが、遠ざかっていくのが見えた。桐眞は縛られたまま反射的に立ち上がり、後を追おうと外に向かって駆け出していた。が、まとも動けない状態では、動き出しすらいつも通りとはいかない。すぐにまた捕えられ、強く背後に引かれた。

「ってぇ……」

 今度は容赦なく床に叩きつけられ、腰と背中をしたたかに打った。しかし、その時だった。開いた障子の向こうで、天の底が抜けるのが見えた。


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