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第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (五)

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<五>


 「じゃあ、その頃、坊ちゃんを見初みそめた可能性もあるねぇ。輝陽きょうか行き帰りの『あわい』でかはわからないけれど……とりあえず、その大旦那さまの屋敷周辺から調べてみるのがいいだろうね」
「すみません。お手数おかけします」

 手をついて、桐眞とうま暁葉あけはに向かって、再び、深々と頭を下げた。

「なに、いいんですよ。自領で他のモノに勝手されるのはしゃくさわりますからねぇ」
「おまえの縄張りでもなかろうが。ずうずうしい」
「なにを今更。意地悪な事をお言いでないよ」
「まあ、二人とも忙しいのに、来てくれてありがとう。こちらでも何かわかったら、すぐに知らせるわね」

 またぞろ言い合いを始めようとするモノたちをさえぎって、咲保さくほは言った。

「お兄さまも今日のところはこれ以上なにもないと思うし、心配しなくても大丈夫よ。浜路はまじもいてくれるし」
「お任せください」

 まるおと暁葉は、良い返事の浜路をそっくり同じ怪訝けげんそうな目で見ると、お互いにそっぽを向いた。

「まったく、返事ばかりいいんだから。しっかり見張っておくんだよ」
「若さまもお嬢さまも異常があれば、いつでもお呼びください。すぐに駆けつけますので」
「ええ、ありがとう」
「わかった」

 暁葉は庭に出ると歩いて、まるおは影の中に消えていった。見送って、やれやれと桐眞は呟き立ち上がると、部屋に戻るようだ。相変わらず覇気はきのない様子だが、微かに安堵あんどの表情も見受けられた。

「若さま」

 と、浜路が声をかけた。

「お二人の前ではご遠慮させていただきましたが、念の為にその子をお連れになってください。何か異変があれば、すぐにこちらにも伝わりますので」

 にぃ、と甲高い鳴き声をあげて、片手に乗りそうな大きさの薄茶色のぶちをもつ子猫が、桐眞の足元に擦り寄った。

「私が申し上げるのもなんですが、相手はモノで、ましてや恋情を伴うと悪変しかねません。モノのそれは人よりも重いですから……若さまのお強さは存じておりますが、どうぞ、十分にお気をつけになってください」
「この猫に名前はあるのですか?」
「いえ、どうぞ、若さまがおつけになってください。この子も喜びますし、それで影に潜められるようにもなりますので」
「そうですか……では、有り難く預からせていただきます」

 桐眞は、ひょいと子猫を拾い上げると、ふところに入れた。子猫は腹のあたりでもぞもぞと動くと、そのうち緩んだ襟元からひょっこり顔を出した。目を細めた表情から察するに居心地は悪くなさそうで、兄も満更でもなさそうだ。指先で、額を撫でてやっていた。

「じゃあ、咲保、何か連絡があったら教えてくれ」
「わかりました」

 咲保は頷いて、浜路に一言いれてから夕餉の支度へと向かった。庭では、掛け声も勇ましく、剣術の稽古をはじめた磐雄いわおの姿が見られた。

 冬の布団は重く、せっかく湯で温まった体温を台無しにしそうな冷たさに、咲保は身を縮こまらせた。冬の嫌なことの一つだ。温まるまで、しばらく我慢がいる。収まりの良い場所を求めて身じろぎしながら、今日あったことを考える。
 あちこちの神社へ初穂料はつほりょうを納めにまわって帰ってきたばかりの母は、ついた夕餉の席で、なにか変だと気付いたようだった。無言で圧力をかける兄と、逆に何か言いたげにそわそわする磐雄、咲保も少しは態度に出てしまっていたかもしれない。なにかあったかと探る母の問いには、皆、口をつぐんで答えず、何も知らない瑞波みずはだけがいつも通りでいてくれたおかげで、なんとか誤魔化すことができた。

玄武げんぶのお嬢さんって、どんなお顔をしてらっしゃるのかしら……)

 稲荷の暁葉は瓜実顔うりざねがおのしゅっとした美人。猫神の浜路は目がぱっちりとして可愛い。狸のまるおは丸々として貫禄かんろく愛嬌あいきょうがある。モノそれぞれに個性が出るが、人に化けても、本性の特徴もすこしは出るようだ。

(亀……)
 
 想像がつかないが、個性的な顔のような気がする。それよりも、あの兄が女性と一緒にいる絵面自体が思い浮かばない。恋だなんだと浮ついている様子が、想像できない。それでも――おそらく、近々、縁談が用意されてもおかしくない時期だと、今更ながらに気がついた。そうなった時、咲保はどうすればよいのだろう?

(仲良くしてくださる方だったら良いのだけれど……)

 兄とだけでなく、咲保とも。せめて、小姑こじゅうと付きを嫌がるような女性でなければいいと思う。

(だって……仕方ないじゃない……)

 嫁に行かず、独り身を貫く女は、世間から後ろ指をさされる。咲保はそうなることが確定だ。迂闊うかつに人と触れ合えない身が伴侶を得るなど、到底、無理な話だ。下手すれば、白無垢が次の日には死装束になりかねない。そうならなくても、咲保が母になることは不可能に近い。ただでさえ命懸けの出産に耐えられそうもない。
 ならば、独立してひっそり倹しく暮らすかといえば、やはり、難しい。特に経済的な問題が大きく立ちはだかる。昨今では、外に働きに出る女性もいるそうだが、この体質である限り、大勢と同じ場所で働くことは難しすぎる。学生時代に、それは充分に経験した。
 それに、女工であれ、奉公人であれ、なんの職業であれ、男性と同じように働いても、女は給金が少ないと聞く。内職もあるが、それで日々、暮らしていけるかといえば、もっと難しい。いくつも掛け持ちして最低限だろう、と母も言っていた。
 女性解放運動が叫ばれ始めて久しいが、女は夫を支え、家を守り、子を産み育てることが当たり前とする意識は根強い。家の存続を一番に考えた結果だろう。だから、女は仕事を覚えてもすぐに結婚してやめてしまうだろう、という考えが一般的にもなる。女性には個人を優先し、仕事一筋という選択肢はない。社会不適合者とばかりに後指をさされる。男からも女からも――それが、いちばん理不尽だと感じる。
 咲保の将来については両親も交えて、さんざん話し合ってきた。だが、一向にこれという解決策は見つからず、大雑把おおざっぱにですら道筋もつけられない。なのに、もう時間は限られていることに気づかされた。

(どうして……)

 しんしんとこおる夜の空気が、呼吸のたびに身に取り込まれ、芯まで冷えていくようだ。なのに、胸から吐き出した息は妙に熱を帯びて、目頭が熱い。咲保は布団に潜り込み、ぎゅっと目を閉じた――どこかで、水が滴る音がした。


 冬の朝は暗い。陽も明けきらぬ内から咲保はひとり厨房に立ち、朝餉の支度を始める。母もきゑもまだの早い時間、白い息を吐きながら井戸から水を汲み、かめを満たす。地面を踏みしめるたび、しゃりしゃりと、霜柱が崩れる音が立つ。咲保がたてる音ばかりが、大きく響く。
 冬の入りばなにして、今日は一段と冷え込みが厳しいようだ。厨房の乾きこごえる寒さに、今からこんな風では今年の冬は厳しそうだと不安にもなる。昨晩は布団が一向に温まらなかったせいか、寝不足だ。あまり寝た気がせず、なのに、いつもよりも早く目が覚めた。身体も気持ちもすっきりしない。だが、再び寝ようという気にもなれず、そのまま起きてきた。身体を動かせば気分も変わるだろう。朝の仕事は沢山ある。
 米を洗い、かまどに火を入れようと焚き付けを用意していると、厨房の戸が開いた。母が起きてきたかと見れば、思いがけず、桐眞がいた。

「咲保、いたのか」
「おはようございます。お兄さまこそ、今朝はお早いのね」
「あ、いや。すまないが、雑巾あるか?」
「雑巾なら、そこに」

 朝の掃除にしても早すぎる時間だ。なにやら様子がおかしい。

「何かありましたの?」
「いや、大したことじゃないんだが、昨日のアレがちょっとな……」
「あれって、小石のことですか?」
「ああ、うん……今朝、起きたら、箱から水がこぼれ出ていたから拭きたいんだ」
「洗ったんですの?」
「いや、何もしてない。箱に入れていただけだ」
「……浜路にも伝えた方がいいかも」
「それなら、さっき、蘇芳すおうがすっ飛んでったぞ」
「蘇芳?」
「ああ、お預かりした猫の名だ」
「そう。なら、伝わっていますわね」

 蘇芳などと、猫につけるにしてはずいぶんった名だと思うが、兄なりに猫神である浜路に敬意をはらったのかもしれない。とりあえず、咲保も雑巾と桶を持って、桐眞の部屋を見に行くことにした。

「大変!」
「さっきより酷くなってる」

 うわ、と桐眞も声を上げた。箱から水が湧き出でて、置いてある文机の縁から間断なくたくさんの雫が滴り落ちていた。下の畳はすでにびしょびしょになっているのが、離れていても見てとれる。大惨事だ。

「お兄さまは、とりあえず、箱を外に出して下さい。こちらは私が片付けますので」
「ああ、わかった」

 桐眞が箱を抱えて走る間も、床に落ちる水音は続いたが、後で拭けば良いだろう。問題は、机周辺だ。

(雑巾の一枚、二枚じゃ足りないわ……畳も上げなければ)

 濡れた部分を、うっかり踏んでしまった。底の厚い足袋でも、すぐに湿る。冷たい。咲保はありったけの雑巾を集めてくると足袋を脱ぎ、裾をからげて帯に挟んだ。たすきもかける。持ってきた雑巾をばら撒いて水を吸い取らせると、手桶で絞るを繰り返した。

(座布団はもうダメね。畳も表の張り替えだけじゃ無理だわ……)

 座布団を軽く絞れば、滝のような水を落とした。布団はすでに上げてあり、こちらは被害をまぬがれたらしい。不幸中の幸いだ。
 そうしている間に、桐眞が戻ってきた。箱は座敷の前の南側の庭に出してきたそうだ。そこが一番、近かったので。ざっと拭いた文机を二人で移動させ、桐眞は庭までの濡れた床を拭きに、再び出ていった。
 咲保は、水を吸って重くなった畳二枚を、うんしょと持ち上げて壁に立てかけた。下に敷いてあった古新聞はぐしゃぐしゃで、触るだけで気持ちが悪い。丸めて、立てかけた畳の下に集め、できる水たまりを防いだ。それでも足りず、雑巾を集めて、やっとなんとかなる。後で、六蔵りくぞうに運んでもらおう。床板は少し濡れた程度だ。残りを軽く拭いて、やれやれとひと息ついた。朝一番からとんだ大仕事だ、と嘆息する。厄日らしい。

(これではお兄さまも、内緒にしていられないわね……)

 おそらく、母の特大の雷が落ちることだろう。

「……おすみになられましたでしょうか……?」
「ああ、浜路」

 呼びかけに見れば、部屋の戸口から中をのぞき込むようにして浜路がいた。


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