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第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (十九)

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<十九>


◇◇◇

 
 ざりざりとしたこめかみ付近の刺激で、咲保さくほは目を覚ました。みぃの鼻面がすぐ目の前にあった。少し魚くさい。枕のすぐ横に寝転びながら、咲保の毛繕いをしてくれたらしい。ぐるぐると喉を鳴らす声が大きく聞こえる。優しくしてくれているのだろうが、猫の舌は痛い。

「目ぇ覚めましたんか。喉が渇いてますやろ。お水飲みますか」
「お母さま……」

 かたわらに座る母の姿に呼びかければ、額の上にあった氷嚢ひょうのうが水音を立ててずり落ちた。

「ひどい熱出して、二日も寝こんでましたんやで。ほんま無茶しすぎどすわ。ああ、もう熱は下がったみたいや。良かったわ」
「お兄さまは?」
桐眞とうまは、あのあと一日ほど寝ていただけで、元気どす。今はなんや、論文の提出日に間に合わん言うて、図書館行ってますわ。磐雄いわお梟帥たけるくんから聞いたとかいう方法で、本片手に『あわいの道』を往復したりしててな。ほんま忙しないったら。そんなことしてたら、目が悪うなってしまうやろに」
「ああ、試験ですものね。けれど、『あわいの道』で勉強ですか……」

 確かに時間の節約にはなるだろうが、ちゃっかりしているというのか、そんな方法は、普通、思いつかないと思う。すっかり梟帥への対処を忘れていたが、事件のことはバレていないようだった。磐雄に教えに来たところを、父がうまく断ってくれたらしい。あまり馴染みすぎるのも、問題だ。

(日常が戻ってきたんだわ……)

 それこそ咲保の求めていたものだ。起き上がり、湯冷しの入った湯呑みを受け取り飲んでいると、母が居住まいを正すと、頭を下げた。

「あの時、あんたが迎えに行ってくれなんだら、桐眞に二度と会えんようになったかしれんと聞きました。あの子が怪我もなく、大して時間も無駄にせんと無事に帰ってこられたんは、あんたのお陰どす。ほんま、よお連れ帰ってきてくれました。おおきに。ありがとうございました」
「お母さま……」

 顔を上げた母は、両方の目尻を片袖で素早く拭うと、まじまじと咲保の顔を見つめた。

「案内もなく、ひとりで『場』に入るなんて、さぞかし心細かったやろうに……ほんまに、ほんまに、二人とも無事に帰ってこれて良かった。心配しましたえ」
「いいえ、みんなのお陰で、過分なほどの護りを身につけていましたし、行ってすぐにみぃに会えたので、かえって心強かったぐらいでした」
「そう言いますけど、あっちでモノに対して酷く怒ったん見てびっくりした、て桐眞から聞いて、あんたがちっちゃい頃のこと覚えてて、そのせいで無茶させてしもたんかと思ぉたら、辛ぁてな。モノの怖さをいちばんよお知ってるあんたを行かせてしもたことを、後悔したんどす。いらん怖い思いさせたん違うか、もっとえぇ方法があったん違うかって思ってな」
「……私は大丈夫です。行って良かったと思います。お兄さまを助けられたし、何もできなかったあの頃と違うんだってわかったから。運もあったんでしょうが、私でも対抗できる手段があるんだって、そう思えたから。だから、大丈夫です」
「ほんまに……大した事なくてよかった。おおきに、おおきになぁ……」

 鼻をぐすぐすと言わせながら、母はしばらくの間、何度も目尻に手を当てるを繰り返した。落ち着いたか、気を取り直したように母は顔をあげると、みぃに視線を移した。

「みぃもな、よぉ桐眞守って頑張ってくれたて聞きましたで。おおきにな。みぃにもお礼をせんとあきませんな」
「試験が明けたら、お兄さまがぶりを一尾、買ってきてくださる約束なんです」
「あら、それはええこと。みぃ、大したご馳走や。良ろしおますな」
 
 嬉しい、とみぃも、はたはたと長い尻尾の先で布団を叩いた。

「さ、なんか食べられそうやったら、食べた方がえぇ思いますのんやけれど。おかゆさん持ってきましょか」
「……いただきます」
「ほな、すぐに持ってきますわ。あんたにもはよ元気になってもらわな。相嘗祭あいなめのまつりの準備もあるしお礼のまつりもせなならんし、年始の準備やらやることいっぱいや」

 そう明るく言って部屋を出ていく母を見送り、咲保はまた布団に横たわった。ちょっと無理をするとこれだ。熱っぽさはなくなったが、倦怠感けんたいかんがひどい。またすぐに寝てしまいそうで、母を待つ間、宇津田姫うつたひめの『場』でのことを思い返した。
 ひどく腹を立て、癇癪かんしゃくを起こした。感情に流され、みっともなく無様ぶざまさらした。思い出すだけでも恥ずかしい。
 白姫を、八つ当たり気味に痛めつけた自覚がある。幼い頃に受けた、モノたちからの仕打ちへの復讐心が込められていたのも認める。普段は忘れたつもりでいるが、その怒りや恐怖はいまだに昇華しきれずくすぶっている、そのせいだ。だからと言って、今はまだ、許せそうにない。また同じようなことがあれば、同じことを繰り返すだろう。あの恨みつらみは、そう簡単に忘れられるものではない。だが、それでもいつか、許すための努力をしてもいいと思える日が来れば、考えなくはない。とりあえず――、

(やってみれば、出来るものなんだわ……)

 準備を怠らず立ち向かえば――そう思えばこそ、過程こそ色々あるだろうが、これからもそう思ってやっていけるだろうと結論づけた。みっともなく足掻いて無様を晒しても、なにもできずに泣いていただけよりは、ずっと気分がいい。モノを前に縮こまって震えていただけの、無力な子どもはもういない。
 そうだね、と同意するように、みぃの尻尾の先が咲保の頬を撫でた。

 その後、起きられるようになってから、咲保の視点からも何があったか聞きたいという父とも話した。父は、いつものように静かに咲保の話を聞いて、頷いた。

「桐眞の行動もあながち間違いとは言えんし、人の相手の話なら、正しかったとも言える。けれど、今回のよく知らないモノが相手については、考えが甘かったと言わざるを得んな。これが良い教訓になればいいけどな」
暁葉あけはも同じようなことを言っていました。色仕掛けは、女のモノの常套手段じょうとうしゅだんだそうなので」
「最初から相手を疑ってかかるのは、あまり気分の良いものではないが、モノが相手の場合は、自衛のためと割り切ってもらうしかないな」

 やれやれ、と父は気疲れしたように首を振ると、茶をすすった。咲保もお茶請けのチョコレートがけのカステラを、一口切り分けて口に運んだ。試験はまだ終わっていないが、桐眞が咲保のために、モノたちへの分に先んじて買ってきてくれたものだ。改めて、礼を言われた。

「厳しくしてきたつもりだが、そのあたりの事はどうにもなぁ……感情もあるし、こうせぇとは言えんところが難しいな。それよりも、だ。咲保」
「はい」
「桐眞にも言ったが、今回は、皆が出払っていて時期も悪かったが、モノが絡んでいるとわかった時点ですぐに、どんな些細ささいなことでもかまわんから、私かお母はんに伝えること。式でもなんでも使って。今後、それだけは守ってくれ。それで防げることだってある。自分たちでなんでも出来ると思わんことだ」
「はい、ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げ、話も区切りがついたようなので、ついでに、咲保も抱えていた疑問を父に聞いてみることにした。

「なんで宇津田姫は、玄武のいる社に顕現けんげんしたのでしょうね。北繋がりでかれただけなら、栄扉えどにいた名付け親に近いところで他にも候補はあると思うんですけれど……お父さまはおわかりになります?」
「さて、なぁ? 偶然ということもあるだろうし、想像するしかないけど、あそこの神社にまつられている親王さんは、詩歌やらを好まれていたそうだ。連歌師れんがしが名付け親ということもあって、そんなんも関係してたかもしれん」
「お兄さまの祝詞のりとや歌を気に入ったというのも、それあってのことだったのかしら」
「かもしれんな。そういえば、轆轤ろくろの始祖ともされてると聞いたな。これはあまり関係ないだろうが」
「轆轤を……皇族の方がもの作りに携わったという話は、聞いたことがないのですが」
「そうだな。本当かどうかにせよ、立場以外にも色々と複雑な方だったかもしれん。人となりまでは推し量れん。けれど、玄武げんぶがいまだ残っていたのは、そういうところで庶民の信仰を受けていたこともあるんだろうな」
「なるほど……」

 世の中には色々な縁があるものだな、と咲保は感心し、カステラをもう一切れ、口に運んだ。
 初めて食べたそれは、意外にも、普通のカステラよりも甘みが抑えられているような気がした。それでも、十分に甘いし、美味しい。珍しさもあって、これなら豊玉毘売命とよたまびめのみことも気に入ってくれることだろう。
 咲保は、最後の一切れをぺろりと片付けて、満足した。


 師走に入り、慌ただしくも例年通りの穏やかさを保って、冬の日々は過ぎていく。人も、モノも。
 玄武と宇津田姫うつたひめらは、結局、処分されることなく、国水分神くにのみくまりのかみの預かりとなったそうだ。人から見れば、理不尽で甘い処分だが、彼女たちのしたことは、モノとしては普通にあることだし、未遂に終わったこともあるようだ。問題になったのは、被害者が桐眞だったから、のその一点だけだ。今は、他のモノたちと定期的に交わりながら、水のモノとしての心得を仕込まれているそうだ。
 玄武は、未熟な玄武たちの保父まがいの役目をこなしているそうだ。その様子は意外に手慣れた様子で、穏やかに過ごしているらしい。語りはしないが、どうやら幼かった黒姫と白姫も玄武がそうして育てたのだろうと推察される。数百年におよぶ孤独を経て出会ったモノたちを、父のように、家族のように慈しんできたのだろう。宇津田姫たちとのあの深い信頼関係も頷けるというものだ。実にモノらしい。
 白姫は、鯉のモノたちとは性分的に合わなかったことから、竜になることを断念したそうだ。結果として、黒姫と一緒にいられさえすれば、彼女はそれで満足なのだから、さほどこだわりはなかったわけだ。今は同じくらいの見た目に戻った黒姫と二人、その内、少しはましになれば、佐保姫さほひめたちと顔を合わせられる日も来るだろうとの話だ。
 桐眞の学期末試験はなんとか無事に終わり、いつもよりは成績が振るわなかったものの、赤点はまぬがれた。例の一件以来、ますます精進するようになり、成長した、一皮剥けた、と周囲からの評価も高い。家族はそれを喜びつつも、『らしくなさ』に密かに心配もしている。

 それが解消されるのは、年が明けてもう少し先の季節のことだ。冬は、もの皆、雪の下に埋もれるような休息時間を享受きょうじゅする季節だ。辛抱強く力を蓄えながら、明るい陽の下に立てる日を待ちわびる。


 その年の冬は、その後、いつになく温暖な季節となった。


 了



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