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Twitterはじめてみたら、文章との付き合い方が見えてきた。

わたしはどうやって書いていたんだろう。

noteを2年近くあまり休むこともせずに

書いていた時。

ある種軌道に乗っていたのかもしれない。

なにも考えず、四の五の言わず書くことを

じぶんに課したのだから書くのだと。

すごくかっこつけて言うと「自分との約束」

だった。

ほぼ2年続けたら、連投は力尽きてしまって。

わけあってちいさなお休みを重ねているうちに

なんだか日々書くということのリズムが

狂うんだと知った。

でも、あのお休みの期間はありがたかった。

砂漠をさ迷い歩いていた時に思いがけなく

であったのは、サソリではなくオアシスだった。

みたいな感じだった。

note休むとはこんな風景なのかと、眺めていた。

noteのペースを落として見えてきたもの。

それは

わたしの書きたいサイズがみえてきたことだ。

その理由はTwitterかもしれない。

あんなにSNSを遠ざけていたわたしが

Twitterに身を置いてみて気づいたことが

いくつもあった。

広告の仕事を出たり入ったりしながら

短い文章を書いてきたせいだと思う。

140字にまとめる作業を1日に何度か

瞬間的にしてしまうと。

もうお腹いっぱいになっている。

お喋りな人とお喋りじゃない人との

差みたいなものに似ているかもしれない。

わたしも書くことでお金を頂くときは、

なにがなんでもやるしかないけれど。

誰の縛りもないと思われるこういう

SNS的な場所では自分を優先してゆきたい。

そういう意思も芽生えた。

そしていちばん感じたことがある。

文章でも人と接するときでもそうだけど。

いつもおなじわたしではいられない。

作家の平野啓一郎さんが提唱されている

文人主義と言われる考え方。

じぶんを「個人」じゃなくて「文人」として

捉えてみるという、心の在り方だ。

これはわたしをずいぶんと楽にしてくれた考え方。

相手によってコロコロ変わる自分でいいんだよと

言ってくれている。

ぶれないことが、ベストじゃないし。

ぶれていて、時には全然いいのだと。

だって、付き合う相手はひとりじゃない

のだから。

変わらざるを得ないし。

変わらなかったら、おかしくなってしまう。

それを文章に置き換えると

ペコちゃんの七五三の千歳飴のように、

舌をだしたペコちゃんがいつでも

でてくるみたいな文章なんか書けっこ

ないのだ。

わかってる。

遠ざけていたTwitterを始めてみたら。

あの場所はわたしがかなり素でいられる

場所になっている。

というか、なっていた。

素とは、あるがままのわたしとも違う。

ありのままのわたしでも裸でも

毛頭なくて。

じぶんの言葉を見ていて、かなり素が

でているなツイートの文章はって思う。

色は欲しいけど生成りが、いいやみたいな

そんな感じ。

noteで文章を書くということは、どういう

ことだろうとnoteに2年以上席を置きつつ

考えることがある。

これはnoteを服にたとえてみると。

コンビニに出掛けて行く、ラフな服では

出かけられないとわたしじしんが

思っていることがあって。

それは、こんなこと言っても仕方ないとか

わたしがわざわざ言わんでいいわとか

自分で自分を狭めていた時間が少し

あった。

何気なく書けなくなっていた。

文章を書くということは、それを

ひとさまにおみせすることへの

ハードルの高さに、負けそうになって

いたのかもしれない。

そして、Twitterでじぶんの時間の中で

じぶんの書きたいことだけを書くという

カタチがいま守られてとても心が

楽になっていた。

そうやって、Twitterで心を整えているうちに

また、noteでもエッセイを書く、書きたい

という想いも戻ってきたような気がする。

文人主義と同じでSNS的な場所もいくつも

あるほうが、たったひとりの自分にとらわれ

なくていいんだと思う。

ひとすじなんかじゃなくていい。

「書く」ってことこれからもわたしなりに、

考えたり立ち止まったりしながらnoteで

書いてゆきたいと思います。

書く場所を色々、ノマド的に変えてみると

書き方って見えてくるなって思うこの頃です。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。






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