49日過ぎても、悲しみのジャブを受け続けていた。

あの日、わたしはすこし混乱していた。

雑踏が混み合うように、頭のなかのちいさな線と線がからみあって、
ほぐれなくて。

でもこのほぐれなさは、じぶんにとって生まれてはじめての経験なので、
この状態をクリアにしたいとは思っていないじぶんもいた。
 
世の中で誰かが生まれて、生まれたそのひとはずっと生きているわけじゃ
なくて。

いつか時がくれば死んでゆくことは、じゅうじゅう承知だったのに、
ぜんぜん承知していないことに気づいた。

むかし、

15歳ぐらいから22歳くらいまでのわたしを知っている、大きなお兄さん
のように親しくしていただいたKさんが、突然なくなったことをその日
知った。
 
「眠るように静かに」

だとか

「声をかけたら、起き上がりそうで」

とか。

その人の死を目の当たりにした人々の証言をみみにしても、それは。

わたしのものではないし、

わたしの知っているそのひとのことではないような気がしてくる。

「おまえ、ほん笑いたくなるほど、ばかだねぇ」

だとか

「もうちょっと社交っていうものを学ばないと、大人になって苦労するぞ」

だとか

それは、ほんと預言者のようにあたっていたけれど。

その人が

わたしを楽しませながら言ってくれたことばのいろんな断面が、日常を
こなしているすきに、ぽっかりと聞こえてくることがある。

逢っていた時期は短くて。

その後は逢わなくなってしまった時間のほうが長いのに。

この想像したことのない喪失感に、時折今もほんろうされてる。

でもその喪失感って、

もしかしたらその人への情のあらわれなのかもしれないことに、気づいた
そのこと自体におろおろしていた。

そしてどういうわけか、生きていた時よりも死んでからのKさんのほうが、いまとても近くて、輪郭さえありありとしている。

存在感が、ちぐはぐじゃないかと抗議したい。

<人は一度出会ったら、二度と失わない>

っていう江國香織さんのエッセイで知った文章を重ねてみたせつな、

いしいしんじさん

<自分が今ここに存在していること自体が、おおいなるねじれ>

っていう言葉を上書きしてみたり。

初七日が、いちばんきついと思っていたら四十九日すぎてもかなしみの
ジャブを受け続けている感じ
で、あの頃、どんなふうに日々が過ぎていっ
たのか、思い出せない。

とつぜんなにかを失うと、そのぽっかりとした空間を埋めようと、つとめるものだと知った。

そしてわたしは、その思いをショートショートに込めた。


そしてこのショートショートが、こんどはすてきな墨書になった。

それも、わたしの大好きな五輪さんのクリエイトによって。
 

画像1


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五輪さん。

この書の言葉を読んだとき、背筋がすすすっとひやりとして。

あの小説の中のサッドストーンが、呑みこんだ言葉が、今ここにあること。

わたしではなく、五輪さんの言葉と書によってここにあること。

そしてその言葉は五輪さんの想いであるのに、まさに星になった彼の言葉のようにも聞こえて来た気がして。

あの人が五輪さんの書の中にも、生きている気がしています。

五輪さんの書をずっと眺めていたら、サッドストーンってもしかしたら、
あの人のことかもしれないって。

つみというつみを悲しみの石となって、あの人が喰らっているのかも
しれないと。

五輪さんと出会えたこと、

そして五輪さんがあの物語の中に寄り添ってこんなにすてきな書という形に結晶させて頂けたこと、大切にします!

ありがとうが、こんなふうに不器用にしか表現できなくて、ごめんなさい。

今日は五輪さんにこの曲を送りたいです。

♬backnumberさんの 手紙です

どうぞお聞きくださいませ♬


     さそり座の しっぽのなごり ゆらっとゆれて
      またたきが 水平線と すれちがうとき


 
 
 

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