書く時の救世主が、PR誌『花椿』だった。

note以外でも月に3度ほど日記を書いている。

もう20年ぐらい前から。

これが書けない。

書くことがない日がある。

ほんとうに今日はどうしようわからんって

なったときの頼みの綱がわたしにはある。

とても頼もしい頼みの綱。

それは、資生堂のPR誌(企業文化誌)の『花椿』で。

資生堂と聞くと化粧品を思い浮かべるけど。

わたしの場合はずっとすきだった

紙のPR誌『花椿』を想いだす。

母は、若い頃から化粧品はずっと資生堂と

決めていて、小さい頃母がデパートの

1Fにある資生堂から帰ってくると必ず

一緒にもらってきていたのが、

『花椿』だった。

資生堂に行くと聞くと必ずもらってきてねって

頼んでいた。

大人になってからは、わたしも虜になった。

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いつも、ページを開くとついつい長居して

しまって戻れなくなっているのだけれど。

戻れない間に気持ちまでが、ニュートラルに

戻っていて、ちょっと書けそうな気持ちに

なったりする。

ページのすみずみに魔法がかかっている

みたいに。

つまりわたしがなにか文章を書けないモードになると、

困った時の『花椿』ってな具合に

本棚からひっぱってくる。



7年前のものだけれど。

そこに執筆されている方のエッセイがすきだった。

テーマは<午後三時>

<午後三時、ある日、どこかで> というタイトルで。

色々な国の色々なジャンルで活躍されている方が、

午後三時をテーマにエッセイを書いてゆくという

もの。

たとえば、ボスボラス海峡に面した茶館でまどろむ

ベルリン生まれの文筆家の午後3時とか、



ローマのナヴォーナ広場を散策する児童文学作家の

午後3時とか、


雨模様のボゴタ

アンデス山脈のふもとでパソコンの画面と窓の向こうの

雨を見ながら、着想が浮かばないと格闘している

コロンビア生まれの作家の午後3時とか。



いまわたしが開いているページは、

ドラ・トーザンさんという国際ジャーナリストで

エッセイストの方。


そのエッセイには、

<うだるような暑さ、のんびりとしたリズムで時間が
進む地域では、甘くやさしい怠惰に身を預けます>

と綴られていた。

シエスタはおなじみだったけれど。

そこにはfarnienteと綴られていて、甘くやさしい

怠惰とその言葉がイコールでつながれている。

イタリア語で<何もしない>を意味するらしい。

どんな音なのかわからないけれど、すてきな

響きだなって、頭のなかで夢想し耳が

音を受け止める。

日本在住の彼女が膝にけがをしたらしく、

トップアスリートたちに交じって、南フランスで

リハビリ中の様子が綴られていた。

もう日記ならこれぐらい、実生活のどこをみても

見当たらないぐらいかけ離れている方がいっそ、

読んでいてリラックスできる。

彼女の日記には

<静かに人生に身をゆだねること>、

<そんな落ち着いた生き方を学び直しています>

と、結ばれていた。

今読みながらはっとした。

ゆだねたり、あずけたりを思いっきり、体で感じる

季節が人生の何処かにあってもいいのかも

しれないなって思う。

近頃落ち着きたい想いばかりが募っている

わたしにとって心に響く言葉だった。

いまだけはいろいろなものをとりあえず

保留しておくって考え方も、悪くないと思う。

Farniennte。

ここではないどこかの遠い国の言葉は、こころの

なかにほんの少しスペースをもたらしてくれるから、

胸が躍る。

このエッセイのタイトル<ある日、どこかで>。

これを読んでいた7年前よりも今のこの様々な

状況下で読むと、旅の憧れと共にすこしだけ

<いつか>っていう未来もいっしょに

連れてきてくれるみたいで、<いつか>に

希望をこめてみたくなる。

昨日まで、『ほぼ日刊イトイ新聞』で、

資生堂『花椿』についてのすてきな特集が

組まれていました。

ご興味おありでしたらどうぞお時間よろしい折に

お読みくださいませ。


ゆだねたり あずけてみたり モビールゆれる
世界には 眠りつづける 街があるって



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