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さよならが、希望のはじまりになってゆく。

真夜中にМちゃんのnoteを読んでいた。

最近はとてもしあわせそうな彼女の

日常を読むのが好きだった。

Мちゃんはいまは「ふたり」という単位を

生きている。

「ふたり」ってこんなに幸せになれるん

だなっていうぐらい、お互いをおもいやり

ながら、彼らは暮らしている。

朝のお化粧や準備に時間がかかりそうな

時、彼女の相方さんはご飯をつくったり

後片付けしてくれたりする。

幸せなひとこまが描かれていた。

朝のシーンも好きだ。

彼の寝顔が可愛いから、触れたいのに

我慢しているところとか。

新しい街が大好きで街のパン屋さんが

かわいいとか。

街頭がかわいいとか。

角のおうちが可愛いとか。

かわいいアンバサダーやんかって

いうぐらい彼らにはかわいいが

なんだか似合う。

わたしはそんなふたりを読みながら

映画の『パターソン』を思い出す。


すこし重ねてみている。

詩を書く彼とそれを応援する彼女。

そして労わりながら暮らしている

彼ら。

ニュージャージー州のパターソン。

街と同じ名前を持つパターソンは

路線バスの運転手。

恋人のローラとブルドッグ犬の

マーヴィーと共に暮らすその一週間が

描かれていた。

たった一週間を描いた恋人同士のふたりの

一週間はとても豊饒な時間が流れていた。

主人公のパターソンは詩人。

詩で生きている

詩を生きていた

わたしはうまく言えないけれど、Мちゃんと

彼の暮らしをみていると。

暮らしのなかにおとずれる時間を

せいいいっぱい愛でて生きている

そんなふうに感じる。

それはわたしがとうてい辿りつけない

場所で憧れであり、どこかゆめでも

あるのかもしれない。

そして昨日読んでいたそのnoteの

おしまいには油断していたら

その投稿が最後であることも

記されていた。

そうなんだ。

Мちゃんらしいなって思った。

接続詞をいうみたいに

さよならを言う。

ちょっとさびしかった。

いやかなりさびしかった。

彼女とは、思い出がありすぎる。

noteのなかで大切だと思ってる人と

仲たがいしそうになってるときも

彼女が間にはいってくれて

お互いなにか誤解してるかも

しれないからと。

会話をなんどもいったりきたり

しながら重ねてくれた。

わたしはうんと年上なのにお世話に

なってばかりの彼女なのだ。

彼女は色々な方から受けたやさしさを

返していないというけれど。

それはわたしのほうだと思う。

そしてなにより彼女との唯一の共通項は

お誕生日が一緒なこと。

これは思えばすごいことで、一生変わらない

ことなのだ。

Мちゃんもわたしもずっとお誕生日が

一緒であることは変わらない。

わたしのほうが先におばあさんに

なるけれど。

それはそれでМちゃんとおなじ

誕生日だと思うとなんだかうれしいのだ。

ずっとずっと後の2月1日にМちゃんが

この世に生まれてきてくれてほんとうに

よかった。

noteで出会えてよかった。

これからも「ふたり」という単位を

しあわせに生きながら生まれ育った

ご家族もひたすら大切にし続ける

Мちゃんのすがたが目に浮かんでます。

さいごに『パターソン』のなかで

登場する最後の詩をここに紹介します。

その一行
古い歌がある
僕の祖父がよく
歌っていた
君は魚になりたいのか?
その同じ歌は同じ質問を繰り返す

Мちゃんがどこにいても、

どこで働いていても

どこかで立ち止まりたくなっても

どこかで笑っていても

ずっとМちゃんのことを応援して

います。

これはさよならじゃないような

気がする。

なんていえばいいんだろうな

この気持ち。

🍑📗追記📘🍑

って昨日の深夜書いていたら。

Мちゃんから、コメントが届いた。

彼女とは、絵本を今制作中です。


『ことりんとことりこ』の一番初めのページのМちゃんの絵。

この絵本を書き上げたいので、

絵の教室に通ってでも完成させますね

というメッセージだった。

Мちゃんのやわらかな色づかいや

輪郭線を色をにじませながら描く

ところなどだいすき。

これからもまだ努力し続けて描き上げたい

という彼女のひたすらなところも

とても好きです。

いつか彼女から絵が届く日を待ってます。

この続きのお話しのМちゃんの絵は

これからのわたしの希望になりました。

ありがとう、さびしくなくなったよ!


さよならの 詩の言葉さえ 風にまぎらせて
おわかれの はじまりの言葉 ふたりに贈る


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