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母にはならなかったけど、子供の言葉を書き留めたくなる一瞬がある。

薄緑色のカーテン越しの出窓の側で、ものを書いている。
時折、いろいろな子供たちの声が聞こえてくる。

顔はよくわからないけれど、とにかく途切れとぎれの
台詞みたいに、耳に不意にはいってくる。

この間は、男の子が女の子に語った言葉に耳がとまった。

<ぼく、この間、しんきろうをみたよ。それでね、しんきろうを、
さわったよ、ゆびで>

耳に入ってきたものの。

え? 蜃気楼だよね。

私の思ってる蜃気楼じゃないかもって思いながらも、唐突でシュールで
うれしくなる。

そしてその先を、キーボードを打つ手を止めて耳を澄ませてみたくなる。

相方の女の子はふーんって感じで、なぜか、そこにはツッコまない。

言った側から疑問を呈するなんてことは、まずしない。

そんな年頃っていうか、

その女の子のまず聞くよ、聞いてあげるよっていうスタンスが、いいな
って思いつつ。


その男の子が、次になにを発するのか聞いてみたかったけれど。

角の向こう側にフェードアウトしていった。

それってまるで、先日書評で読んでいたまど・みちおさんの言葉みたいだった。



<どんな小さなものでもみつめていると宇宙につながっている>

わたしはそのことばを眺めながら、その

<どんなちいさなもの>を
<どんなちいさなこどもでも>に、スイッチしてみた。

<どんなちいさなこどもでも、見つめていると宇宙につながっている>

なーんて。アレンジしてみたくなったりして。

わたしは、誰かの親になることはなかったけれど。

わたしが、もしだれかの親になっていたら。

そういうふうに、

こどもたちの言葉をすこしずつコレクションできたら、おもしろかっただろうなって夢想することがある。

そんな暇はないだろうことも知っている。

母を見ていたから。

余裕もなく、私と弟と祖母の面倒でいっぱいいっぱいだったのも重々しっているけれど。

ちょっとした合間をみつけて。

だいすきなモレスキンのちっちゃなノートに、きれいじゃなくてもいいから

息子もしくは娘の言葉を書き写してみたかったなって。

じぶんのことよりも、彼らの言葉を日付と共に記して、日記のようなものを作りたかった。

アルバムみたいに。

いつもいつも。

なにか特別なことを言うわけじゃないだろうけれど。

ときおり訪れるそういう瞬間って、かけがえのない発見だなって、思い描いてみたり。

だからなのか。

わたしの日記帳には、自分以外のいろいろな人たちのことばであふれかえっている。

とくに落ち込んでいる時は、誰かの言葉をカゴ一杯摘みに行く感じ。

この間5月29日は、折々の言葉を読んでいて

芸術家の森村泰昌さんのことばに出逢った。

<おとなに なってしまったら わからなくなることも たくさん
あるはずだ。>

うわって、思う。

なんかいちいちどきどきしていたかもしれないし、今よりも感じることが
こわくてふあんだったかもしれない、

けれど子供の頃、好きだったことって、今もすきだし。

あの頃の性格はそのまま引き継がれて、いまに至ってるようにも感じる。

こどものころに拾った種をてのひらで、息をふきかけたり、ぎゅっと握ったり、あたためながら。

おとなになっても、まだそれを手放せなくて、いろいろと孤軍奮闘しているこの頃だけれど。
 
ちょうど人生マックス落ち込んでいた時だったので、とてもこころにしみた。

わたしにとって子供の言葉って、じぶんの子供ではないけれど。

窓辺の外を歩いている通学の時や、遊んでる時の彼らの言葉って、たまに

心のどこかにまっすぐに届いて。

時折、母親の視点でものを見てる時もあるけれど。

どこかで、じぶんが子供だった時もふわりと思い出させてくれたりする。

しんきろうをさわったよ。

あの男の子は、

どんな男の子にこれからなっていくんだろうって、ちょっと思いを馳せてみたくなった。

言葉って毒にもなるけれど、

明日を思い描けるようにしてくれる、甘い果実の役割もあるんだなって。

🎒 🎒 🎒 🎒 🎒 🎒 🎒 🎒 🎒 🎒 🎒 🎒 🎒 🎒

今日も長い長いひとりごとにお付き合いいただきありがとうございました!

#聞きながら書いてみた

今日は

♬10-FEET さんの 蜃気楼です。

ではどうぞお聞きくださいませ♬


     ゆきずりの かごのなかから はみだしている
     しぐさとか こえにならない 思いとかぜんぶ 



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