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裸のままの言葉で、ごめんね。

わたしにとってTwitterはいまかなり

大事な場所になっている。

ガシガシ営業してますとかじゃなくて。

わたしの頭の中を整える場所に

なってくれているからだ。

心に思いついた形のないものの

輪郭を与えるために。

そこに感じた言葉を拾い集めながら

その輪郭線をつなげている。

そしておずおずとツイートしている。

この間はこんな風に書いていた。

短歌だけじゃなく言葉はみんな詠み人知らずで、私の中に降り積もってゆく。そして私も詠み人知らずのひとつになる。時々過去の言えなかった想いのリベンジをしようとしてしまう。そんな時、短歌にごめんねって気持ちになってしまう。代わりに戦わせてごめんね。

わたしのツイート4月14日より。

幼い頃はうまく喋れない子供だったので

祖母が定規で丁寧に切ったちいさなメモ

代わりのちらしの裏に、不満を書いたりして

父や母に訴えていた。

罵詈雑言を書いて家族会議になったことも

ある。

その時、使った言葉についてというよりも

祖母が丁寧にこしらえていたちらしのメモに

ごめんねって気持ちになっていた。

それからは祖母のメモを使うのを辞めた。

言葉はそうやって小さなころからわたしの

側にいてくれているのだけど。

むかしはずいぶんと、乱暴に言葉を扱って

いたなって思う。

今がとても丁寧に扱っているのかというと

そうでもない日も多々あって。

心乱れたままの言葉をふいに、吐き出して

しまいたくなる。

チラシのメモからちょっと進んで、

大学ノートに短歌を書きなぐるようになった。

ほとんどが、たぶんあれはデスノートに

近かったかもしれない。

闇色のノートだった。

面と向かって言えなかった言葉がそこに

綴られていた。

そこに疑問はなかった。

言葉はそのためにあるとさえ思っていた。

じぶんの心はいつもささくれだっていたから

荒ぶる心を押さえるために書いていた。

そしてこんなわたしも歳を重ねて

言葉と相変わらず付き合っているけれど。

いつだったかさっきのツイートみたいな

気持ちが湧いてきた。

言葉は使うその人が使う寸前までは

その人のものだと思う。

でもSNSやnoteやほかのメディアなど

一度その言葉を空気に触れさせてしまったら

それは、浮遊し始めて誰かのもとに

思いがけなく届いたりするものなのだと

思う。

宛先がない言葉、宛先がある言葉。

いずれにせよ、言葉はたちまち発した人の

ものじゃなくなってゆくという運命を

たずさえている。



昔、闇ノートを書いていた頃の短歌。


いつだったか大好きなコピーライターの

方のコラムの中で聞いた言葉があった。

もしその人が家の中ですっぽんぽんで

いたとしても。

そのままいくらなんでも外にはそのまま

でないでしょ?

って。

そりゃそうだ。

まったくもってそうだ。

それはなんの比喩かなって思っていたら

言葉のあしらい方についてが描かれて

いた。

言葉には服を着せようよって。

せめても、人が見た時に服着てますね

って思えるぐらいに、と。

わたしはそのコラムを読みながら思った。

わたしもすっぽんぽんのことあるなって。

裸の言葉で胸に刺さりました。

たとえばこんなふうな感想を誰かの

レビューで見たとする。

でもそれは裸の言葉にみえてちゃんと

服を着ている言葉なんだと思う。

言葉に責任を持つという言葉はなかなか

厳しい言葉だけど。

わたしはそのことともうひとつ。

これは自分への戒めだけど。

言葉に復讐させてはならない。

代理戦争のように言葉にそれを

させてはいけないと思ったりする。

短歌をはじめてずいぶんと時間が

経つけれど。

短歌になった言葉は拙いなりにわたしの

分身だと思っている。

いずれ誰かの元に届くかもしれないし。

届かずに浮遊しているかもしれない。

彼らが輪郭をもちはじめると、それらは

また持ち主のところへふいに戻って来る。

宛先不明の手紙のように。

その手紙が戻ってきたときに、下手なのは

仕方ない。

でも、これリベンジだなって思いたくない

のだ。

だから、なるべくだけど。

わたしは言葉にあの日の仕返しを

させてあげたくないなって思うのだ。

ささやかなわたしとわたしの約束に

すぎないけれど。

そんなことを思いつつ。




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