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アニメ系記事のnoteの病

記事を読んでいてふと、思ったことがある。
アニメ系の記事で純粋にアニメそのものについて語っているの少なくない?と。ここで言う「アニメそのもの」とはアニメの内容である。

それっぽいタイトルで中身のない記事

noteのアニメ系記事でありがちなのは「○○から見るor学ぶ○○」「○○から考える○○」「○○性のなんとか〜」など、それっぽい高尚なタイトルを多く見かける。では実際それら記事の中身はどうだろうか。正直中身がないという感想である。

具体的に言うと、作品を紹介したいのか、うんちくを語りたいのかどっちつかずで内容がぼやけている。作品の内容に少し触れて、そこから脱線した話を延々続ける記事が非常に多い。
「この描写は聖書の○○を引用していて〜」などのように、比喩や例え話に終始して、全くアニメそのものについて述べていないのである。
それは何故か、オタクとして薄っぺらいからである。
現実の事柄とアニメを結びつけて記事に厚みを持たせるというのは、薄い知識で語るにはうってつけだ。別のもの同士をリンクさせると何やらインテリな雰囲気も醸し出せる。

このようにアニメを紹介している体で、実際は何やら高説らしき文章を垂れ流して悦に入っている記事がほとんどである。アニメをダシにだして、自慰行為に及んでいると言った方が正しいだろう。
こういった高尚風で中身がない記事のことを私は「noteの病」と呼称する。

マクロなようでミクロなアニメ史()

他にもnoteにありがちな傾向として、アニメ業界で活躍するクリエイター個人の功績を並べて、アニメ史を語っている記事だ。
もちろん、クリエイター個人の功績は客観的事実で間違いない、だが、それらの功績を主観的に並べ立てて勝手にアニメ史と総括するのは甚だ疑問だ。
歴史というからには、網羅的に過去から現在まで連綿と続くアニメという媒体を客観的でマクロに語ってほしい。主観的でミクロな視点の主張を歴史とは呼ばないのである。
これもまた、先ほどと同様に薄っぺらいオタクがそれっぽくアニメ業界を語るにはうってつけなのである。

noteが抱えるSNSとしての側面

noteはフォローしたり、されたりとユーザー同士の交流が図れる仕組みが存在する純然たるSNSである。表現活動に少し比重が傾いているが、SNSとしての側面は当然無視できない。
バズりやPVを稼ぐことが目的となり、本質的なものは軽視される風潮はnoteも他のSNSと同様である。それっぽい高尚なタイトルが好まれるのも、このようなSNSとしての側面が強いからだろう。
薄っぺらいオタクが幅を利かせるには最良のプラットフォームかもしれない。

最後に

noteには数多くの薄っぺらいオタクが生息している。その者たちはアニメにかこつけて、SNSで自慰行為に及んでいるのである。
インスタントにアニメを語ることのみに執心し、乱文を量産する薄っぺらいオタクを私は蔑視する。

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