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アナログ派の楽しみ/スペシャル◎へそまがり日本史(創作大賞2024応募作)

へそまがり日本史


 
わかんねえ、
さっぱりわかんねえ。
――杣売のセリフ(黒澤明監督『羅生門』より) 

『古今和歌集』

平安朝の人々の
哄笑が聞こえてくる

 
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」
 
初の天皇の勅命になる『古今和歌集』(905年)にあって、紀貫之は仮名序をこう書き出している。中国から渡来した漢詩に対して、和歌のほうこそ日本人の正真正銘の言葉に他ならないという、編纂者としての高ぶりが伝わってくるようだ。そこには、平安時代に至ってひらがなが誕生したことも与って力あった。それはそうだろう、ひらがなであれば幼児だって読み書きできるのを見るだけでも、この文字体系がどれほど革命的な意義を有したかはわかろうというものだ。
 
したがって、ここに収められた約千百首の和歌に「四季」や「恋」の主題が大きなウェートを占めているのは、当時の日本人の美意識を反映するのと同時に、新たなひらがなの方法によってどこまで表現することが可能になったのか、それを突きつめようとした積極果敢な試みの結果でもあったのに違いない。わけても、わたしが強く興味をそそられるのは、滑稽や諧謔・風刺にチャレンジした作品だ。なぜなら「笑い」こそ、最もラディカルな表現の冒険を求めるはずだから。
 
以下、引用は『新潮日本古典集成』(奥村恆哉校注)にもとづく。まずは、よみ人しらず(作者不詳)の一首。
 
・梅の花 見にこそ来つれ 鶯(うぐひす)の ひとくひとくと いとひしもをる
 
梅の木に鶯とは、夫婦の仲睦まじい交わりを表したもの。それを眺めにきたら、鶯の鳴き声が「人来、人来」と邪魔立てするように聞こえたとか。他愛ない駄洒落ではあるけれど、ひらがなだから成り立った。つぎは、六歌仙のひとり、僧正遍昭の作。
 
・秋の野に なまめきたてる 女郎花(をみなへし) あなかしがまし 花もひと時
 
あだっぽい女たちを秋の野の女郎花に譬えて、その騒々しさをあげつらっているのだが、本来、凡俗を脱したはずの僧侶にふさわしからぬ、とぼけた味わいもひらがなによるものだろう。もうひとりの六歌仙、小野小町の作はもっと激しい。
 
・人に逢はむ 月のなきには 思ひおきて 胸はしり火に 心焼けけり
 
恋人に逢う手立てもない闇夜の鬱憤を吐きだして、「思ひおきて」の「ひ」が「火」に掛かり、「おき」が「起き」→「熾き」に、「胸はしり」から「はしり火」→「焼けけり」へとエスカレートしていき、心中でぱちぱちと火花の散っているありさまが伝わってきておかしい。女の胸のうちを露わにしたといえば、こちらも生々しい。よみ人しらず。
 
・あしひきの 山田の案山子(そほづ) おのれさへ われを欲しといふ うれはしきこと
 
案山子(かかし)のようなお前までが求婚してくるなんて、ああいやだ、の弁。校注によると、案山子とは男としての機能が不完全な男を暗示するそうで、いまならさしずめ、このインポ野郎め! といったところか。おそらく男も女も宴席でこんな歌を肴に盛り上がったのだろう、平安朝の人々の哄笑が聞こえてくるような気がする。もうひとつ、よみ人しらずを。
 
・そゑにとて とすればかかり かくすれば あな言ひ知らず あふさきるさに
 
要するに、ああでもないこうでもない、の繰り言。こんなばからしい愚痴のたぐいまでも堂々と表現できるようになったわけだ。『古今和歌集』のこれらの「言の葉」たちが、やがて俳句や川柳などにもつながり盛大な花を咲かせていく。ひらがなの誕生は、千年あまりの歳月にわたって、世界にも例を見ないぐらいの「笑い」をわれわれにもたらしてきた原動力ともなったのである。
  

奈良法相宗薬師寺 声明『薬師悔過』

悔い改めよ、
さもなければ…

 
お寺の声明に接する機会はそうそうない。だから、黛敏郎作曲『「涅槃」交響曲』の1995年に録音されたCDに併せて、奈良法相宗薬師寺の僧侶10名による『薬師悔過(やくしけか)』の実演が収められていなかったら、こうした摩訶不思議な世界をいつまでも知らずにいたことだろう。実際、わたしは、メインの黛作品よりもこちらのほうにずっとインパクトを感じたくらいだ。
 
みずからが過去に犯した過ちを薬師如来に向かって悔い改めるための法要、『薬師悔過』は奈良時代に由来するという。そこでの声明は、散華、梵音、錫杖、呪請願、称名悔過(前段・後段)、唱名号、祈請、大懺悔、牛玉加持行道の十のパートから成り、これらのネーミングからもただならぬ雰囲気が伝わってくるのだが、黛が執筆した解説によれば、「伝統的声明として極めて音楽的価値の高いものといえば、私の知る限り奈良声明がまず頭に浮かぶ」として、「梵音や錫杖にみられるような幅ひろく自由なポルタメントと、変貌自在なテンポの移り変わり、そして導師と大衆のかけ合いやカノンでたたみかけてゆく、ドラマティックな構成を持つ」と賞賛しているから、自身が取り組む20世紀の前衛音楽と対峙させてもまったく引けを取らないものらしい。
 
もっとも、わたしの素朴な耳には、はるかな古代からせめぎ寄せてくる暴風のような気配のほうが濃厚だ。僧侶のリーダー(導師)とコーラス(大衆)が仏や菩薩の名号を唱えながら高揚したあげく、熱に浮かされたように「南無楽」と連呼しあったのち、突如、法螺や太鼓が荒々しく轟きわたってクライマックスを築き、かれらの唱える真言が時空を切断する成り行きの、このおどろおどろしさはどうだろう? これに較べたら、カトリック教会のグレゴリオ聖歌などいかにもおとなしく聞こえるほどだ。
 
『薬師悔過』がはじまった奈良時代、平城京の薬師寺に景戒という僧侶がいた。かれはわが国初の仏教説話集『日本霊異記』を編纂したことで知られ、その中巻の第10話には「つねに鳥の卵(かひご)を煮て食ひて、現に悪死の報を得る縁」と題して、こんなエピソードが記載されている。
 
孝謙天皇の御代のこと、和泉の国にしょっちゅう鳥のタマゴを見つけては煮て食べるのを習慣としている男がいた。ある日、国司の使いと名乗る兵士が訪れて、そのあとについていくと、やがて麦畑のなかに踏み込んだとたん足の下で火が燃えさかり、男は「熱いよ、熱いよ」と泣き叫びながら走りまわった。そこへ村人がやってきて助けだしたものの、男の両足の肉は焼けただれて骨がむきだしになり、翌日にはとうとう息絶えてしまった。そのあとにつぎの文章が続く。
 
「誠に知る、地獄の現にあるなりといふことを。因果を信(う)くべし。烏(からす)のおのが児を慈しびて他の児を食むがごとくにあるべからず。慈悲なきひとは、人といへども烏のごとし。涅槃経にのたまはく、『人と獣とは尊卑の差別を得たりといへども、命を宝(たふと)ぶると死を重みすると、二つはともに異なることなし云々』とのたまへり。善悪因果経にのたまはく、『今の身に鶏(とり)の子を焼き煮るひとは、死して灰河(けが)地獄に堕ちむ』とのためへるは、それこれをいふなり」
 
当時の人々はこうした教えのもとに過ごしていたのだろう。人間と動物の生命の重みになんら違いはなく、決して損なってはならない、と言うは易く、タマゴのひとつにも手をつけるな、とは行うに難い。しょせん、ひとは殺生なくしては生きられないのではないか。だからこそ、すべての衆生にみずから犯してきた過ちを悔い改めさせ、底知れぬ地獄への道行きから救済しようとすれば、僧侶たちの唱える『薬師悔過』におどろおどろしいばかりの緊迫感が漲ったのも頷けよう。
 
そんな声明が1200年あまりの時空を超えてうたい継がれ、現代のわれわれの耳にも届いているとは考えてみれば途方もないことだ。これをどう受け止めればいいのだろう? よもや、前衛音楽に匹敵する音響のドラマとして鑑賞するだけでは済むまい。なぜなら、「鶏の子を焼き煮る」のを当たり前の日常としているわれわれは、そのぶん人間の生命についても軽んじているはずで、そこに気づいて悔い改めないかぎり灰河地獄に堕ちることを、かつて薬師寺の景戒は教えようとしたのだから。ばかばかしい、と笑い飛ばして話は終わりだろうか。それとも――。
  

内藤湖南 著『日本文化史研究』

われわれにとって
応仁の乱が意味するものは

 
よほどNHK大河ドラマに入れ込んだのだろう、鎌倉幕府の武士たちや平安宮廷の貴族たちについて親しい隣人のような口をきく手合いがわたしのまわりにもいる。こうしてテレビの画面を通じて、現代のわれわれと遠い過去の距離がいっぺんに縮まるのはまことにけっこうなことだと思う。が、そこには落とし穴もあるらしい。明治・大正期の東洋史学界の泰斗、内藤湖南は『日本文化史研究』に収められた「応仁の乱について」(1921年)のなかで、こんなふうに述べているのだ。
 
「大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります」
 
ざっくばらんな話し言葉なのは講演の筆記録のゆえだが、それにしてもあまりに大胆不敵な主張ではないか。応仁の乱(1467~77年)以前の、つまり平安時代や鎌倉時代はわれわれにとって縁のない外国の歴史と同じと言っているのだから。
 
その論拠とするところを、ひと言で要約すれば「下剋上」だ。足利幕府の室町時代に10年以上も続いた戦乱にあって、実際に京都が戦火に見舞われたのは3~4年に過ぎなかったものの、その結果、洛中洛外の公卿門跡がことごとく焼き払われ、貴族階級に代わって世間に台頭したのが最下層の足軽連中だった。他にも「下剋上」の風潮はさまざまな面に現れる。たとえば、天皇家の宗廟たる伊勢神宮においても、それまではとうてい平民が近づける場ではなかったところ、このころ朝廷はすっかり衰微して祭祀を行うこともままならなくなり、伊勢の講中をこしらえて一般大衆の参拝によって維持を図るという、いまにつながるスタイルがはじまった。
 
こうして社会の上下の仕組みが根こそぎ引っ繰り返った状況に対し、内藤はつぎのように指摘する。
 
「かくのごとく応仁の乱前後は、単に足軽が跋扈して暴力を揮うというばかりでなく、思想のうえにおいても、その他すべての智識、趣味において、一般にいままで貴族階級の占有であったものが、一般に民衆に拡がるという傾きを持って来たのであります。これが日本歴史の変り目であります。〔中略〕とにかく応仁時代というものは、今日過ぎ去ったあとから見ると、そういう風ないろいろの重大な関係を日本全体の上に及ぼし、ことに平民実力の興起においてもっとも肝腎な時代で、平民のほうからはもっとも謳歌すべき時代であるといっていいのであります」
 
どうやら、応仁の乱以前は一般の人々にとってひたすら逼塞した息苦しいだけの時代だったのが、このとき広々と社会参加の扉が開いて、将来の大衆社会に向けてスタートを切ったようだ。だからこそ、エンタメ作品でも、応仁の乱以後の織田信長・豊臣秀吉から徳川家康を経て、坂本龍馬や西郷隆盛ら幕末維新の志士たちに至る時代が絶大な人気を博してきたのだろう。
 
ところが、21世紀の今日になって、内藤の弁にしたがうなら外国の歴史にも等しいはずの、平安時代や鎌倉時代のほうが関心を集めているように見受けられるのはどうしたわけか? ことによったら、政治家から芸能人まで世の中の日の当たる場所には二世三世がはびこる一方、途方もなく拡大した経済格差はいっそう固定化するばかりで、いつの間にかこの国が階級社会へと逆行しつつあることを反映しているのかもしれない。

山川菊栄 著『武家の女性』

男性たちはなぜ
毛髪にかくも執着するのか

 
髪は女のいのち、というけれど、男性たちの毛髪に対する執着もおさおさ劣らないのではないか。それは世間に氾濫する養毛・育毛剤から人工増毛術、ウィッグやかつらに至るまでのおびただしい広告を眺めただけでも明らかだろう。顔面の髭や首から下の体毛には冷淡で男性用脱毛サロンも盛況と聞くけれど、こと頭部の事情になると涙ぐましいばかりの対策が講じられるのはどうしたわけだろう?
 
かねて抱いてきたそんな疑問に対して、ひとつのヒントを与えてくれたのが山川菊栄の『武家の女性』(1943年)だ。これは近代の女性解放運動の論客として名高い著者が、幕末の水戸藩の下級武士の家に生まれ育った実母・千世(ちせ)に当時のしきたりや暮らしぶりについて聞き取りを行ってまとめたもので、そこからは時代の隔たりを超えて、まるでわれわれの隣人のような生々しい息遣いが伝わってくるのが面白い。
 
このなかの「身だしなみ」の章によれば、武家の女性たちは当然のたしなみとして12~13歳から自分の髪を結いはじめ、嫁入りをするまでに恥ずかしくない島田や丸髷を結えるようになるため腕がだるくなるほどの稽古を重ねたという。むろん専門の女髪結いも存在したけれど、もともと芸娼妓向けの商売が次第に富裕な町家に普及していったもので、武家に出入りすることは許されず、自分の髪はあくまで自分の手で結うのが基本だったらしい。さらには、大勢の家来がいる上層階級はともかく、ふつうの武士の家庭では男性の髪を結うのも主婦の仕事だったとして、こんなふうに記述されているのだ。
 
「これは女の髪を結うほど、こまかい手数や技巧はいりませんが、もっと力のいる、骨の折れる仕事でした。というのは、若い、毛の多い男の髪などは、一筋のおくれ毛もないように鬢(びん)つけ油(あぶら)で固めてあるのをとかすだけでも楽でなく、更にそれを木の棒のように固めて引きのばした上で、元結(もとゆい)で根を強く強くくくり、折りまげてチョン髷に結うのですから、始めからしまいまでまるで油で固めた棒と取組むようなものでした。」
 
いやはや、あの時代劇でお目にかかるチョン髷には、こうした女性たちの重労働の背景があったとは! あまつさえ、若くて髪の量の多い場合が厄介だった一方で、やがて年を取って毛髪が見当たらなくなったらなったで、禿げ頭につけ髷をしなければならないのも面倒な仕事で、苦労は尽きることがなかったという。
 
ことほどさように煩わしい男性の頭部にまつわるエピソードを辿ったあとで、千世の述懐はこう結ばれる。
 
「しかし幕末に世の中が騒がしくなるとともにそういう悠長な真似はしていられなくなり、維新前後の志士の肖像や、彰義隊の絵草紙に出ている勇士のように、男は総髪にして紫のふとい紐で根をくくり、うしろへさげているのがはやるようになりました。それだけ活動に便利なものが要求され、はやりもしたわけなのですが、水戸あたりでは、あの髪は軽薄でキザだといって年寄は嫌いました。〔中略〕とにかくチョン髷も、女の日本髪と同じく長い太平の遺物で、世の中の移り変りにつれて、風俗の上でも否応なしに古いものがこわされていったのでしたが、女の方は、いつも男より一と足か二た足ずつおくれてその変化が来たのでした」
 
かくして、わたしは膝を打ったのだ。封建社会にあってチョン髷とは、形状に流行りすたりがあったとはいえ、たんに男性の見だしなみにとどまらず、武家の象徴として一家を挙げて堅持するべきものであり、もしそれが損なわれたら一家の名誉も失われて世間のもの笑いとなりかねない仕儀だったのではないか。山川菊栄が書き残した稀有な記録は、長い歴史のなかで培われてきたその精神的なDNAが受け継がれ、いまだに男性たちに(あるいは禿げ頭を嫌う女性たちにも)髪はいのちという固定観念があることを示唆しているようにも読めるのだ。

 

山田耕筰 作曲『赤とんぼ』

その憂愁のメロディは
シューマンからやってきた!?


行きつけの市営スポーツセンターでエアロバイクを漕ぎながら、ヘッドフォンでシューマンの『ピアノ協奏曲』を聴いていた。ウラディーミル・アシュケナージ独奏とウリ・セガル指揮ロンドン交響楽団の組み合わせで、初めて耳にするCDだ。やがて30分ほどの演奏が終わり、つぎに未知の曲がはじまったのをそのまま流していると、わたしは思わずバイクから転げ落ちそうになった。なぜなら、ピアノとオーケストラのやりとりがあまりにも馴染み深いメロディを浮かびあがらせてきたから……。
 
あとで調べてみたら、それはロベルト・シューマンが1853年に作曲した『序奏と協奏曲的アレグロ』という演奏時間17分ほどの楽曲で、このなかに三木露風の詞に山田耕筰が曲をつけた童謡『赤とんぼ』の冒頭部分にそっくりなメロディが繰り返し出現するのだ。もちろん、古今東西のおびただしい音楽作品にあっては「他人の空似」めいた事例がしばしば見受けられるけれど、ここまで瓜ふたつの類似はただの偶然ではないのかもしれない、という気もしてくるのである。
 
「金屏風を立て廻した演壇へは、まづフロツクを着た中年の紳士が現れて、額に垂れかかる髪をかき上げながら、撫でるやうに柔しくシユウマンを唄つた。〔中略〕俊助はその舌たるい唄ひぶりの中から、何か恐るべく不健全な香気が、発散して来るのを感ぜずにはゐられなかつた。さうしてこの香気が彼の騒ぐ心を一層苛立てて行くやうな気がしてならなかつた」
 
芥川龍之介の未完の小説『路上』(1919年)の一節。ここに描写されているのは、三木露風が主宰する同人組織・文芸社にドイツ留学から帰国したばかりの山田耕筰を迎え入れて、1914年(大正3年)2月21日に東京・築地の精養軒で催された音楽会「山田アーベント」の情景だ。文中の「中年の紳士」が山田そのひとで、主人公の俊助の名を借りて芥川が報告してところにしたがえば、これ見よがしにデカダンの雰囲気をまとったシューマンの歌曲を披露したらしい。
 
山田に対して一般的には作曲家や指揮者のイメージが幅を利かせているものの、明治日本が西洋音楽を導入した草創期に東京音楽学校(現・東京芸術大学)の声楽科を出たレッキとした歌手でもあった。卒業後、三菱財閥の岩崎小弥太の絶大な支援を受け、ベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学してマックス・ブルッフに師事したが、この人物はメンデルスゾーン、シューマン、ブラームスら、ドイツ・ロマン派音楽の本流を信奉していたから、山田がシューマンに深く親しんだのも当然の成り行きで、くだんの『序奏と協奏曲的アレグロ』に接したことも十分考えられよう。
 
帰朝した山田は上記のとおり、新進気鋭の音楽家としてエネルギッシュにリサイタルやオーケストラ指揮の活動を繰り広げたが、好事魔多し、生来の女性好きが祟ってスキャンダルを引き起こし、パトロンの岩崎の激怒を買って莫大な借金を背負い込む羽目に。そんなさなかの1927年(昭和2年)1月29日、かれは茅ヶ崎の自宅から東京に向かう東海道線の車中で、たまたま盟友の三木露風から贈られた童謡集『真珠島』を開き、そこに掲載された『赤とんぼ』に目が留まった。
 
 夕焼、小焼の あかとんぼ
 負われて見たのは いつの日か
 
そして、どうやらたちどころに曲をつけてしまったようだ。このとき、山田は40歳だった。
 
一方、シューマンが『序奏と協奏曲的アレグロ』を作曲したのは43歳の初秋、愛妻クララの誕生日祝いとしてプレゼントすることが目的だった。しかし、このころすでに精神の失調をきたし、やがて自殺未遂を引き起こすまでになった夫との生活に疲れ果て、クララはこの曲をひどく毛嫌いしたといわれている。そんなやるせないシューマンの生み落とした憂愁のメロディが、それから74年の歳月を経て、意識的か無意識的かは知らず、失意の底にあった山田の脳裏によみがえって琴線をかき鳴らした可能性もあるのではないかと思うのだが、どうだろう?
 

小林正樹 監督『東京裁判』

大川周明が東條英機の
禿げ頭をひっぱたいたワケ

 
息つく間もない、とはこうした映画を指して言うのだろう。小林正樹監督のドキュメンタリー『東京裁判』(1983年)だ。わたしが今度鑑賞したのは3回目となるが、40年前に初めて観たときと変わらず、しばしば呼吸するのも忘れて咳き込んでしまった。満州事変から支那事変、太平洋戦争まで17年8カ月におよぶ日本の戦争行為が裁かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)の全容を、当時の記録映像にもとづき再現したこの作品は、後世のわれわれにとってまさに国宝級の遺産ではないか。
 
1946年(昭和21年)5月3日、戦犯容疑者28名を被告として開廷したのち、裁判管轄権をめぐってアメリカ人弁護団による「もし真珠湾攻撃を犯罪というなら、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下も犯罪ではないか」との異議申し立てにはじまり、ソ連から連行されてきた元満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の「私は日本軍部のロボット同然であり、自分自身の手も口も持っていなかった」という証言(のちに自伝で偽証だったと告白)、また、元関東軍作戦参謀・石原莞爾が病気のため山形県で開かれた臨時法廷において「満州建国を立案した自分が戦犯として法廷に召喚されないのは不思議だ」とうそぶくありさま……などなど、度肝を抜くような場面が続いていく。
 
いちばんのクライマックスは、最終局面でのキーナン首席検事と東條英機元首相のあいだの天皇の戦争責任をめぐる応酬だろう。GHQ(連合国最高司令官総司令部)のマッカーサー元帥の指示で天皇免責を方針とするキーナンは、それをウェッブ裁判長以下に納得させるためにあの手この手を使い、ようやく東條の口から「私の進言、統帥部その他責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったというのが事実でしょう。陛下は最後の一瞬に至るまで平和のご意思を持っておられまして、なお、戦争になってからも然りです」の言葉を引き出して政治目標を達成するのだ。かくして東京裁判は1948年(昭和23年)11月12日、東條ら7名の絞首刑をはじめ全被告への有罪判決をもって結審する……。
 
ことほどさようにすべてが歴史的瞬間といっても過言ではないドキュメンタリーにあって、わたしが最も注目したのは、開廷初日の検事側の起訴状朗読のさなか、被告席の大川周明がいきなり手を振り上げて前列に座る東條の禿げ頭をひっぱたいたシーンだ。もとよりこのエピソードは広く人口に膾炙して、当代最高の知識人といわれた人物の突拍子もない行動は狂気なのか狂言なのかと論議を呼び、現在まで決着を見ていない。しかし、その情景をあらためて目のあたりにして、わたしは第三の解釈がありえるのではないかと思い当たったのだ。
 
「ユーモアに関しては、もう一つの〔中略〕より重要な場合のことを想起したい。それはすなわち、ある人間がユーモア的な精神態度をわれとわが身に向け、それによって自分にふりかかってくるかもしれぬ苦悩を防ごうとする場合である」(高橋義孝訳)
 
これは精神分析学者フロイトの論文『ユーモア』(1928年)の一節だ。かれはユーモアには本来、機知や滑稽と同じく、何かしらわれわれの心を解放させ、大らかに魂を高揚させるものがあるが、それだけにとどまらず、ときにはより深いところで精神病理的な傾向を帯びることもあると指摘するのだ。あの大川の振る舞いがユーモア? 実際、そのあとに東條本人が満面の笑みを浮かべてしきりに周囲を見やっているのは、照れ隠しだけでなく、そこに相手のしたたかなユーモアを受け止めたからではないだろうか。フロイトはこんなふうに論を運ぶ。
 
「けれども大切なのは、それが自分自身に向けられたものであれ、また他人に向けられたものであれ、ユーモアが持っている意図なのである。いってみれば、ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう。ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである」
 
大川はただちに法廷から連れ出されると、精神鑑定の結果、梅毒による精神障害と診断されて免訴になったことを伝えて、映画はエピソードを終えている。だが、フロイトの所説にしたがうなら、この冷徹な超国家主義者こそが初日のタイミングですでに東京裁判の危なっかしさを見抜き、あからさまに冗談で笑い飛ばしてみせたのかもしれない。わたしはそんな想像をめぐらしたくなるのである。
 

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