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「そもそも」を考えること

今日娘に起こった出来事から感じたこと。

次男の言語リハビリで出先だった私のところへ義母から電話があった。

「子供だけで〇〇(喫茶店名)へ行くと言うんやけど、いいの!?」

・・・ちょっと待って、私いまリハビリ中だからあとでかけ直します。と言って電話を切る。

帰ってから話を聞くと、こういうことらしい。

夕方、5年生の長女が友達と近所の喫茶店に子供だけで行く約束をしたらしく、祖母にそのことを伝えたらしい。
祖母の返事は、そんなとこに子供だけで行くのはだめだろう。というものだった。
それでも娘は食い下がり、〇〇さんと〇〇さん(友達3人)と約束をしたのに!
ということで、
【祖母が付いて行って別の席に座りながら孫たちを見守る】
というスタイルで喫茶店へ行ったらしい。
よく話を聞くと、そのうちの一人の子とお店のおばさんが親戚らしく、行こう!ということになった。とのこと。

このことをお風呂に入りながら娘と話す。

【話を整理する】
5年生の女の子同士が学校で、一度うちに帰ってから近所の歩いていける喫茶店に行ってメロンソーダを飲む約束をした。
帰宅後、母が不在だったので祖母に確認をとると
祖母が付いていくという条件で許可が下りる。
その近所の喫茶店は、夜になるとお酒も飲めるしカラオケもできる。
娘が行った時間帯は時間外。主な客は常連客。

祖母:「子供だけでは行けんよ。」
娘:「なんでダメなの!?約束したのに!!」

娘に「なぜダメなの?」と聞かれたときに、祖母はその理由を何と答えたのだろう・・・と考えた。
 ・お酒を飲む場所だから?(時間外だけど)
 ・マダムたちがランチをする場所だから?(理由にはなってない)
 ・不特定多数の大人がいる場所だから?(誘拐とかのリスク?そんなのど      
 こにだってあるよね)
 ・人さまが見たらなんといわれるか分からない。
 (うちは田舎なので、この要素(体裁を気にする)が特に強いと個人的に
  は思う。)

この社会は、不確定なものであふれている。
親も正直なところ、子どもになぜ?と聞かれても答えられないものも少なくない。
我が家が子供同士で行ったことのある場所と状況を、娘と一緒にあげてみた。
⇒コンビニへアイスを買いに。夜祭りのヤシへ友達と。駄菓子屋でお菓子を買って公園でおしゃべり。近くのスーパーへおつかいに。

これらと喫茶店は何が違うのだろう・・・。

最初に言っておくと、私は子どもだけで喫茶店に行ってみたければ行ってみたらいいと思う。もちろん、大人が時間帯の考慮・お金の管理(お小遣い〇〇円まで、など)・購入する商品の内容の把握などをしたうえである。
喫茶店に子供だけで行ってみたい!!という大きな冒険心(自律心)を、大人でさえうまく説明できない理由でやめさせるというのは、もったいないことだと思う。
 子どもの世界はまだほんの小さなものだ。家族という安全地帯から一歩外に出ようとしている時こそ、成長するとき。
コンフォートゾーンからラーニングゾーンに踏み出そうとしている子供たちを、過保護な大人が危険を回避させるために先回りしてあげるのが、いい教育とは思わない。

話は変わるが、
 私の地区では昔から、子どもの登校班(バス停まで300mほど)にそれぞれの保護者が付きそう、という謎のルールがあった。私は仕事で行けなかったし、祖母は行く気満々だったので任せていた。
ところがある時、娘が同じ登校班の保護者に言われたらしい。
「〇〇ちゃん(娘)のお母さんはいつも来ないね。」

 私はこれを娘から聞いたときに頭の中の何かがプッツンするのを感じ、この意味の分からない風習をやめさせよう(やめる方向にもっていこう!)と心に誓った。
 そもそもなぜ、保護者が付き添う必要があるのか。
高学年もいる登校班に大人が付き添うことで、子供の成長につながることは何もない。むしろ高学年の子の役割を横取りし、成長する機会を奪っている。小さな子たちは、お兄さんお姉さんに助けてもらったり教わったりしたことを、自分たちが大きくなった時に次の子たちに返していくものである。
困ったときにはいつも横に保護者がいて助けてくれる。(実際には困る前に守ってくれると言ったほうが正しいか。)
 しかし社会に出た時にこれを経験してない子供は、自分では何もすることができない。何が正しくて何が間違っているのかを、自分で判断することができない。
そんなときの判断基準は「おばあちゃんはどうしていたっけ・・・。」であり、自分の頭で考えることはない。
父親に世話してもらったことのない子供は、自分が父親になったとき子供に何をしていいのか分からないのと同じである。
子どもたちの成長の機会を奪わないでほしい!!
そう思い、若いママさんたちを中心に、この風習をやめることを決定した。

その後子どもたちはというと、毎日子供たちだけで元気に登下校している。
娘は来年班長さんなので、張り切っている。

 さて、話を戻す。
娘は友達と喫茶店へ行くという目的は果たせた。ばーちゃん付きではあるが。

 今回のことでいろんなことを考えた。
もし今後、このような答えのない不確定な課題にぶつかったとき、
私は社会の常識(世間体・体裁・普通・マジョリティ)で世の中を見るのではなく、その問題の意味を子供と一緒に考えながらいけたらいいなと思う。
 これまで私は、不確定なものはすぐにググったり人に意見を求めたりして、自分の頭で考えることをほとんどしてこなかった。
子どもに聞かれたときに論理的に自分の考えが言えるように訓練しようと思った。
「そういうものだから・・・。」「人さまが見たら・・・。」
これも時には必要かもしれない。
でも、そもそもなぜ?私はどうしたいの?どうするのがいいと思う?を考えることを、決して止めないようにしたい。
子どもの時に出来なかった「思考すること」を、いま、やりたい。

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