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詩に片思いをしている人もいる
詩の教室をやっていて思うのは、誰もが器用で、上達が早くて、センスが良い、というわけではないということです。
詩が好きなのに、なぜか詩に好かれていない人、というのが、いるんです。
詩に片思いをしているんです。
詩がこんなに好きなのに、うまい詩が書けない。どんなに頑張っても、詩がほめられることはめったにない。
ところで、ぼくはこれまで何冊も詩集を出したけど、根本のところでは、ぼくもそうなんだと
詩を書いていることがバレてしまっても
ぼくは、勤め人をしていた時に、大きな会議室で、財務状況についてプレゼンテーションをすることがたびたびありました。
その頃、ぼくはすでに詩集を何冊か出していて、自分が詩を書いていることが会社でバレてしまっていたのです。若い頃には社内報にまで載ってしまったことがあり、それからずっと同じ会社に勤めていましたから、特に年配の人はたいてい知っていたのです。
そういえば、詩を書く人には、勤め先で、自分が詩
「かろうじて掴めたのが、詩だった」
「詩を書くことに喜びがあるのであり、その詩が誰かの詩よりも秀でることが本来の目的ではない」と、ぼくは本の中でもたびたび書いている。
その思いに嘘はない。
けれど、自分のことを考えてみれば、「人よりも秀でた詩を書きたい」という思いが、なかったわけではない。
それはおそらく、それまでに、これといった優れたものを持っていないと感じていた自分が、生きている意味を求めて、かろうじてつかむことのできたも
社会的な事象や事件を詩に書くということについて
詩の教室をやっていて気付くのは、社会的な事象や事件を詩に書く人が少なからずいることです。ウクライナのことや、ガザ地区のこと、あるいは気象変動のことや地震のこと、さらには原爆のこと、あるいは政治のことを詩にしてくる人もいます。
確かに、生きていて、心をじかに揺さぶられることに出会い、それを自分の言葉で表現をしたい、という欲求はわかります。ですから、社会的な事象や事件を詩にする人は、自分の思いを存分
スランプの時は「ちょっといい詩」を書くつもりで書く
ぼくだけの感じ方かも知れないけど、今となってはすごいと感じている詩も、初めてその詩を読んだ時には、「この詩、ちょっといいな」と感じただけだった。それが時間が経つとともに、その「ちょっといい」と感じた詩が「すごくいい詩だ」と感じるようになっている。
それはなぜかとずっと考えていて、「この詩はちょっといいな」と感じた時の「ちょっと」にはほとんど意味がないのではないかと思った。つまり、初めて読んだので
わからない詩を責めようとは思わない
ぼくは、自分がわからない詩は、すべて意味がないとは考えていない。
だから、自分がわからない詩を責めようとも、いじめようとも、思わない。
あるいは、自分がわからない詩を好きで読んでいる人に、「その詩は意味がない」なんて、とても言う気はない。
だって、その人とぼくの鑑賞力の差を、だれが知ることができるだろう。自分にはわからないのだから、ほかの人が好きでいるものは、そっとしておく。それでいい。
詩と生きて行くってどういうことだろう
ぼくは、これまで何度も言ってきたように、子どもの頃から詩を書いています。若い頃に一生懸命に書いていて、でも限界を感じて書く事をやめました。悔しかったかと言われれば、そうだったのかもしれません。でも、元来が鈍感にできているから、仕方がないや、と思っていました。自分よりも優れた詩を書く人はたくさんいるし、それはもうどうしようもないことなのだし、自分に出来ることはやったのだから、もういいかなと思ったので
もっとみる詩の商業誌とどのように付き合うか
「現代詩手帖」が創刊したのは1959年、わたしは小学生だった。すでに詩を書いていたが、もちろんその頃は、この雑誌のことは知らなかった。
「現代詩手帖」を読み始めたのは70年代の終わり、大学に通い始めた頃だろうか。ちょうど「現代詩文庫」の発行が始まった頃だ。それまで知らなかった詩の世界があるのだと、わたしは目を見張った。
正直に言えば、当時、三好達治や丸山薫の詩を愛読していたわたしには、「現代詩
日記で表現を鍛え上げる、というのはどうだろう
この間から読んでいる『小山さんノート』に書かれているのは、ほとんどが、日々何があったか、という記述だ。つまりは日記だ。
常々感じているのだけど、ずっと何も書かないでいて、いざ詩を書こうと思っても、ぼくには、すぐに何かを書くなんてことはできない。
ぼくができるのは、なんでもいいから毎日、ひたすら書き続けることだ。そして詩の依頼が来た時(めったに来ないけど)には、それまでに書いた膨大な言葉を読み返