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随想(詩について)

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記事一覧

ネットに詩を書くことについて

ぼくがネットで詩や文章を載せ始めたのは、50代だったろうか。途中でやめたり、ぜんぶ削除したり、また始めたりしてきたけど、もうかれこれ20年以上も書いている。

それで、もちろん毎日書く垂れ流し(と、言われたことがある)のような文章に、何の意味があるだろうと、考えることはある。

ただ、これも一つの表現に違いがないだろうと思う。

というのも、どこかに読んでくれる人がいるのは確かなことだし、書くもの

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詩に片思いをしている人もいる

詩の教室をやっていて思うのは、誰もが器用で、上達が早くて、センスが良い、というわけではないということです。

詩が好きなのに、なぜか詩に好かれていない人、というのが、いるんです。

詩に片思いをしているんです。

詩がこんなに好きなのに、うまい詩が書けない。どんなに頑張っても、詩がほめられることはめったにない。

ところで、ぼくはこれまで何冊も詩集を出したけど、根本のところでは、ぼくもそうなんだと

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詩を書いていることがバレてしまっても

ぼくは、勤め人をしていた時に、大きな会議室で、財務状況についてプレゼンテーションをすることがたびたびありました。

その頃、ぼくはすでに詩集を何冊か出していて、自分が詩を書いていることが会社でバレてしまっていたのです。若い頃には社内報にまで載ってしまったことがあり、それからずっと同じ会社に勤めていましたから、特に年配の人はたいてい知っていたのです。

そういえば、詩を書く人には、勤め先で、自分が詩

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「かろうじて掴めたのが、詩だった」

「詩を書くことに喜びがあるのであり、その詩が誰かの詩よりも秀でることが本来の目的ではない」と、ぼくは本の中でもたびたび書いている。

その思いに嘘はない。

けれど、自分のことを考えてみれば、「人よりも秀でた詩を書きたい」という思いが、なかったわけではない。

それはおそらく、それまでに、これといった優れたものを持っていないと感じていた自分が、生きている意味を求めて、かろうじてつかむことのできたも

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社会的な事象や事件を詩に書くということについて

詩の教室をやっていて気付くのは、社会的な事象や事件を詩に書く人が少なからずいることです。ウクライナのことや、ガザ地区のこと、あるいは気象変動のことや地震のこと、さらには原爆のこと、あるいは政治のことを詩にしてくる人もいます。

確かに、生きていて、心をじかに揺さぶられることに出会い、それを自分の言葉で表現をしたい、という欲求はわかります。ですから、社会的な事象や事件を詩にする人は、自分の思いを存分

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スランプの時は「ちょっといい詩」を書くつもりで書く

ぼくだけの感じ方かも知れないけど、今となってはすごいと感じている詩も、初めてその詩を読んだ時には、「この詩、ちょっといいな」と感じただけだった。それが時間が経つとともに、その「ちょっといい」と感じた詩が「すごくいい詩だ」と感じるようになっている。

それはなぜかとずっと考えていて、「この詩はちょっといいな」と感じた時の「ちょっと」にはほとんど意味がないのではないかと思った。つまり、初めて読んだので

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わからない詩を責めようとは思わない

ぼくは、自分がわからない詩は、すべて意味がないとは考えていない。

だから、自分がわからない詩を責めようとも、いじめようとも、思わない。

あるいは、自分がわからない詩を好きで読んでいる人に、「その詩は意味がない」なんて、とても言う気はない。

だって、その人とぼくの鑑賞力の差を、だれが知ることができるだろう。自分にはわからないのだから、ほかの人が好きでいるものは、そっとしておく。それでいい。

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詩と生きて行くってどういうことだろう

ぼくは、これまで何度も言ってきたように、子どもの頃から詩を書いています。若い頃に一生懸命に書いていて、でも限界を感じて書く事をやめました。悔しかったかと言われれば、そうだったのかもしれません。でも、元来が鈍感にできているから、仕方がないや、と思っていました。自分よりも優れた詩を書く人はたくさんいるし、それはもうどうしようもないことなのだし、自分に出来ることはやったのだから、もういいかなと思ったので

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ぼくも「腐刻画」を読んだ

先日、峯澤典子さんのnoteを読んでいたら、田村隆一の「腐刻画」について書いていた。
それを読んでいて、自然とぼくは、田村隆一の詩を初めて読んだ日の、遠い昔のことを思い出していた。

現代詩文庫の1番目は『田村隆一詩集』(思潮社)で、その中に入っていた詩、「腐刻画」も、もちろん好きな詩だった。

まずもって題名からしてすごい。

もちろん「腐刻」というのは既にある日本語ではあるけれども、そして「刻

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詩の同人誌とは何か

ぼくはこれまでに同人誌には2度参加している。若い頃に「グッドバイ」を、歳をとってから「生き事」を創刊した。

詩の同人誌と言っても、大きく2つに分かれる。ひとつは、自分が創刊に関わっている場合で、もうひとつは、すでにある同人誌に参加する場合だ。

後者の場合は、多人数であったり、著名な詩人が主宰していたり、ほとんど商業誌のようなものもある。ただ、ぼくはこういった同人誌に参加したことがないので、いっ

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詩の商業誌とどのように付き合うか

「現代詩手帖」が創刊したのは1959年、わたしは小学生だった。すでに詩を書いていたが、もちろんその頃は、この雑誌のことは知らなかった。

「現代詩手帖」を読み始めたのは70年代の終わり、大学に通い始めた頃だろうか。ちょうど「現代詩文庫」の発行が始まった頃だ。それまで知らなかった詩の世界があるのだと、わたしは目を見張った。

正直に言えば、当時、三好達治や丸山薫の詩を愛読していたわたしには、「現代詩

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詩人のあるべき姿とは

詩人のあるべき姿とはどんなだろうと、若い頃に考えていた。

定期的に、しかるべきところから詩が求められて、それに応じて詩を作りだしてゆく。そんな姿を、かつては考えていた。

詩は、選ばれた人がその才能で書くものだと。

しかし、ぼくはそのような詩人にはなれなかった。

なれなかったから考え方が変わったのか、あるいは、歳のせいで変わったのかは、わからない。

ただ、以前のような思いとは違ってきたのは

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日記で表現を鍛え上げる、というのはどうだろう

この間から読んでいる『小山さんノート』に書かれているのは、ほとんどが、日々何があったか、という記述だ。つまりは日記だ。

常々感じているのだけど、ずっと何も書かないでいて、いざ詩を書こうと思っても、ぼくには、すぐに何かを書くなんてことはできない。

ぼくができるのは、なんでもいいから毎日、ひたすら書き続けることだ。そして詩の依頼が来た時(めったに来ないけど)には、それまでに書いた膨大な言葉を読み返

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投稿に向いていない詩がある

雑誌にもよるし、選者にもよると思うのだけど、投稿した詩は、基本的には、公平に、あるいは誠実に選ばれていると思う。だから、詩の世界での、投稿の重要な役割は理解しているつもりだし、選者の苦労もわかる。

ただ、長いあいだ詩に関わっていると、選者がどれほど真剣に選んでも、どうしても選から漏れてしまう優れた詩、というのはあると、感じるようになってきた。

こんな経験をしたことがある。数年前に、ある青年の第

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