詩の適齢期について

ぼくは若いころ、詩を書いていて、よく思ったことがあります。

どうして詩人は、歳をとってくると、緊張感の失われた詩しか書けなくなるのだろう、ということです。

自分はあんなふうにはなりたくない、詩がダメになったら、潔く書くことから離れようと、考えていました。

でも、なんということか、ぼくは人よりもずっと早くに、緊張感の失われた詩しか書けなくなりました。

それで、今、自分がもっと歳をとって、考えが変わったかというと、はい、変わりました。

歳をとって書く、緊張感のない、だらだらした詩も、生まれでる意味はあるのだと、思うようになりました。

✳︎

ところで、詩の適齢期というものはあるのでしょうか。あるとしたら、いつなのでしょう。

「詩は青春の文学だ」、とかよく言われますが、詩の適齢期というか、人にとっての詩を始めるお年ごろってあるのかなと思うんです。

それはいつごろなのかなと思うんですけど、たとえば僕なんか、途中で詩をやめてしまったから、言い換えれば、二回、詩を始めたんです。一度目は学生の時、二度目は、50を過ぎてからです。

それで、たしかに若い頃の方が詩が誉められることが多かったんです。やっぱり新しい感覚というのは、自然と新しい人に宿るんです。

でも、五十を過ぎて二度目に詩を始めた時には、もう詩を誉められるということはほとんどなくなったんですけど、でも、書いていて楽しいんです。

むしろ、若い頃に詩を書いていた時の方が苦しかった。

どうして若い頃の方が苦しかったかっていうと、どこか、人と競争をしている感じがあったからなのではないかと思うんです。競争って、たいていだれかには負けるんです。負けるたびに苦しくて、どうして詩を書いて苦しまなきゃならないんだろうと思うんです。

でも、歳をとってから詩を書いているのは、なんというか、こちらも全く人と競争をしていないかと言うと、そうでもないんですけど、どこか、負けることに慣れてきたというか、詩ではない世界、会社勤めの中で、いろんな経験をして、あるいは、プライベートでも、人付き合いでも、いろんな経験をした後ですから、自分のことがけっこうもう分かってきている。

ですから、五十を過ぎて詩を書いていると言っても、もう詩に無理をさせたくないって、思うんですね。

感覚は新しくなくても、詩って、その時の自分が書きたいことって、いくらでもあるんです。

ですから、詩の適齢期って、その人なりの適齢期があるのではないか。若い頃だけではないと思うんです。

現代詩手帖賞をとれなかったから、もう詩はやめる、と感じてやめてもいいと思うんですけど、またその内、詩のほうからやってきて、袖を引っ張ってきて、また楽しみながら書いておくれと、詩の方から言ってくることもあるんじゃないかと思うんです。

それと、詩を書き始める年齢というのは、その後の詩にけっこう影響があるのではないか、とも思うんです。

ひとつ感じているのは、若い頃に書き始めた人の詩と、ある程度の年齢になってから詩を書き始めた人の詩には、詩の姿や内容に、違いがあるのではないかということなんです。

石原吉郎とか、人生の遅くに詩を書き始めた人って、すでに言葉も成熟していて、経験も豊かなので、なにか、言葉と内容のバランスがとれている人が多いのかな。対して、若くして詩を書き始めた人って、言葉の先鋭さに走る人が多いような気がするんです。

どちらの詩もすごいんです。

それと、歳をとってから詩を始めた人の方が、けっこう長く書き続けることが多いようにも感じるんです。なぜだろう。詩との距離のとりかたが分かっている、ということなのかなと思うんです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?