かつて「グッドバイ」という同人誌がありました。

1970年代、同人詩誌「グッドバイ」を創刊した時、わたしは20代でした。

上手宰(かみておさむ)、三橋聡(みつはしさとし)、島田誠一、目黒朝子と、わたしの5人が創刊時の同人でした。

わたしだけでなく、全員が20代だったと記憶しています。目黒朝子が最年長で、次が上手宰、それから松下育男、島田誠一と続き、三橋聡が最年少でした。でも、集まれば歳は関係なく、最年少の三橋は、目黒朝子には「目黒さん」と「さん付け」していましたが、あとのメンバーは呼び捨てでした。そんなことはどうでもよかったのです。

新しい雑誌を始めようと思い立ったのは、上手と三橋でした。それから、三橋聡が目黒朝子と島田誠一を誘い、上手宰がわたしを誘いました。

島田誠一は同時、「詩とにんげんの村」というサークル誌に入っていたと思います。その後、三橋聡が結婚することになる女性も、このサークル誌に入っていました。

同じ喫茶店のこちらとあちらで、「グッドバイ」の同人会と、「詩と人間の村」の同人会が、同時に行われていたこともありました。近い関係の雑誌でした。


島田誠一は当時、実家の魚屋を手伝っていました。日大の芸術学部を卒業した、映画に精しい青年でした。当時は体を悪くしていて、ときどき青白い顔をして同人会に参加することがありました。声の小さな、繊細な青年でした。

「グッドバイ」をやっているときに詩集を一冊出しましたが、ほどなく詩をやめてしまいました。

わたしも詩をやめてから、むしろ島田とよく会っていました。会っても、もちろん詩の話をすることはなく、とくに何の話をするでもなく、一緒にビールを飲んでいました。

その後、わたしがまた詩を書き始めてからは、あまり会うことがなくなりました。たぶん、詩を書いている人間に会うのがいやだったのでしょう。気持ちはよくわかります。


目黒朝子は、数学の先生でした。数学の公式のようなきっちりとした詩を書く、無駄なことは話さない女性でした。創刊当時、すでに結婚をしていたと思うのですが、個人的なことはあまり覚えていません。もともと、自分のことをあまり話さない人でした。

「グッドバイ」が終わってからは、目黒さんとはずっと会っていません。というよりも、あれからどうしているのか、まったくわかりません。住所に詩集を送っても、返ってきてしまいます。

目黒さんは今どうしているのだろうと、時々思います。それを知ってなにがどうなるわけでもないことは、もちろんわかっていますが。


三橋聡はすでに亡くなりました。「グッドバイ」をやめてからも、しばらくは詩を書き続け、詩集も出しましたが、そのうちにやめてしまったようです。

勤め人としてはかなり成功(出世)していたようで、告別式の盛大さ、参列者の多さには、驚きました。

三橋は詩を書くだけでなく、絵も描きました。後に「グッドバイ」に参加した菊池千里の第一詩集『赤頭巾ちゃんへの私的ディテール』(紫陽社)の表紙の、赤頭巾ちゃんの絵は、三橋聡が描いたものです。

さらに、人との交渉ごとにも長けていたと記憶しています。10代で、個人誌を週刊で発行していたそうです。行動力がありました。

三橋聡は、肺の病で(50歳?で)亡くなる前年に、わたしの詩集『きみがわらっている』の出版のお祝いに、わざわざ茨城から来てくれました。その時には、しばらくぶりに会いましたが、ほんとに喜んでくれていたことを覚えています。それが、三橋と会った最後になりました。

三橋が亡くなった後、しばらくは、わたしは三橋の奥さんに「生き事」を送ったり、寒中見舞いをもらったり、そういう付き合い方をしていましたが、いつの頃からか、連絡がとれなくなりました。


目黒さんのその後のことはわかりません。なにか手がかりがないかとネットで名前を検索しましたが、見つかりません。詩をやめてしまったのではないかと、推測します。

50年前、あのときに、あんなに夢中になって詩のことを一日中話していた同人5人の中で、生涯詩を書き続けたのは、結局、上手宰だけでした。


もちろん、それぞれが選びとった人生ですから、それでどうだと、いうのではないのですが。

「グッドバイ」はもう手元にはありません。詩の同人誌でしたから、同人の詩を載せていましたが、表紙の裏ページに「再会」というコーナーがあって、エッセイを依頼して載せていました。北村太郎や石原吉郎や北村寿夫(「笛吹童子」の作者)や大島博光にも書いてもらった記憶があります。

「グッドバイ」を出していた頃は、発行したら決まって、喫茶店に集まって合評会をしていました。あの合評会で、わたしは詩の、多くを学びました。時に怒鳴り合いになるほど、真剣でした。


わたしたちが「グッドバイ」を出していた頃に、「射撃祭」という素敵な名を持った同人誌が出ていました。高木秋尾を中心に、何人かの詩人が集まっていました。その「射撃祭」には、三橋聡も同人として参加していました。

つまり三橋は、「グッドバイ」と「射撃祭」の二つの同人誌に入っていたのです。当時の三橋聡は、「現代詩手帖」の投稿欄でもよく入選していましたから、かなり多くの詩を書いていたのだと思います。

三橋聡が二つの雑誌に参加していた関係で、「射撃祭」の同人のひとりの女性が、「グッドバイ」に入れてくれと言ってきました。

それから数年後に、わたしはその女性に結婚を申し込み、何度か断られて、諦めました。

それからまたしばらくして、突然その女性から連絡があり、わたしはその人と結婚しました。

結婚して6年後に、その人は亡くなりました。


それから「射撃祭」の同人には、岩佐なをもいました。


あれから何十年も経って、わたしは岩佐さんと「生き事」という雑誌をやることになりました。

若い頃に知っていた上手さんと、若い頃には名前しか知らなかった岩佐さん、その二人のそばで、わたしはひっそりと詩を書いてきました。

「グッドバイ」を最初にやめていったのは上手宰でした。それから何号目かに、わたしがやめました。

さらに何号か続きましたが、最終号をまとめあげて、三橋聡がきちんと決着をつけて終わりました。


かつて、「グッドバイ」という詩の同人誌がありました。

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