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随想(人について)

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記事一覧

生きてゆくための優先順位について

ぼくは長いあいだ勤め人をしていた。でも、最後まで、会社へ行くという行為には慣れることがなかった。結局、67歳で勤め人を辞めるまで、胸のつぶれるような思いで毎朝出勤していた。

それでも、月曜日の朝よりも火曜日の朝の方が気分が少しは楽だし、水曜日、木曜日と、徐々につらさは減ってゆく。家の人から会社の人へ、変わってゆくからだろう。

だから、毎日行っていれば、出勤も少しはましなのかもしれない。

つら

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ある宴会について

ぼくが勤めていたのは、青山にある外資系の会社でした。アトランタに本社がありました。大きな会社ではありましたが、社長も平社員もみな、お互いを「さん付け」で呼び合う、個人の意見を尊重する自由さがありました。

ですから、会社帰りに上司や同僚と渋谷や六本木へ飲みに行くことは、たまにはありましたが、それもほんとにたまにのことで、たいていの日は、だれもが自分の仕事が終われば、さっさと帰っていました。

なの

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ぼくの初恋

ぼくが初めて人を好きになったのは高校生の時でした。

ぼくは、高校に入ってから、ろくに勉強もせずに、休みには、詩ばかり書いていました。弟と2人で小さな部屋をもらっていて、勉強机は白い壁に向かっていました。壁の汚れの模様に向かって、なにか詩ができないかと、そんなことばかりを考えていました。

そんなわけで、成績はどんどん落ちていったんです。

それまでいちばん好きだった数学にも、とうとう追いついてい

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無駄な想像

ひとりの男性のことを、思い出すことがあります。その人のことを、ぼくは何も知りません。ただ、ある日の通勤電車の中で、同じ車両に乗り合わせました。

中央線だったと記憶しているので、それならば、ぼくがまだ30代の頃のことです。立川駅から乗って新宿駅に向かう途中で、いきなりドタドタという音が、ぼくのすぐ前でしました。見れば、若い男が床に尻餅をついています。大きな体の人でした。ネクタイをしていたので、おそ

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根津甚八、小林薫、唐十郎

唐十郎さんが亡くなられた。

ずいぶん昔、芝居を観る習慣のないぼくは、唐十郎のことを、もしかしたら現代詩手帖で知ったのかもしれない。唐さんの密度の濃い文章を、現代詩手帖の誌上で、しばしば夢中になって読んだ記憶がある。

それで、テントへ行って、唐さんの芝居をいくつか観に行った。

根津甚八が水しぶきの中で叫んでいるシーンを、今でも思い出す。そのうち根津甚八がテントからいなくなって、小林薫が主人公を

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ある青年の話

ひとりの青年のことを、思い出すことがあります。

ぼくの勤めていた会社は、大きな会社だったので、財務、経理、会計は、いくつかの部署に分かれていました。

ぼくが50歳くらいの頃、隣の部にひとりの新入社員が入ってきました。

外資系の経理というのは、語学と会計についての知識が必須で、だれもが自分の能力を上のものに認められたいと、必死に仕事をしていました。

そんな中で、その青年は、ほとんど目立たなか

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「彷徨」という文字を見ると

「彷徨」という文字を見ると、思い出すことがあります。「彷徨」という文字を見ると、そのたびに、気持ちはひどく乱れます。

もう35年以上も前のことです。日本語ワープロが出た時に、わが家も「書院」というワープロを買いました。まだワープロが出たばかりの頃だったので、内蔵されている辞書にも、漢字数にも、限りがありました。

そしてそのワープロには、「外字」という文字枠が8つ用意されていました。外字というの

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若い頃の、どうということのない話

ぼくが若い頃でも、中学生くらいになるとカップルができていた。放課後に、教室の窓辺に立って外を見ながら話をしている男女が何組もいた。ぼくはといえば、それが羨ましいとも感じずに、後ろを通り過ぎて帰っていた。

ぼくが初めてのデートをしたのは大学生の時だった。アルバイト先で知り合った女性を好きになった。適度に明るくて、目の大きなかわいらしい人だった。勇気を出してデートの申し込みをし、断られるだろうと思っ

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西日

「西日」

これもずいぶん昔のことです。わたしがまだ若かった頃のことです。

ある夏の一日だったと思います。わたしと妻が足立区の姉のアパートを訪ねたことがありました。姉に旅行カバンを借りに行ったのだと記憶しています。生活臭のただよう畳の部屋に、姉と向かい合わせて、わたしと妻が座っていました。

隣の部屋では姉の息子が二人、友達を連れて来て、にぎやかに遊んでいました。その声がかなりやかましく、そのせ

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「時が叶えてくれること」

「時が叶えてくれること」

 双子を持つ親の離婚率は、そうでない人よりも高いのだと、かつて聞いたことがあります。ホントなのかどうか知りませんが、そんなこともあるのだろうなとは思います。双子を育てる日常は半端なく大変だからです。

 私たち夫婦にも双子の女の子が生まれました。知っている限りでは、双方の親戚には双子はいませんでした。それだけに驚きもしました。双子を育てるのはどんなふうだろうと、のんきに

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「もう悩む事はないんだから」

「もう悩む事はないんだから」

これも勤め人の頃の話です。2007年の春だったと思います。

朝からお台場で全社員会議でした。横浜駅から東海道線で新橋駅へ。殺人的な混雑ぶりでした。新橋で乗り換え、ゆりかもめで台場駅へ。こちらはうって変わってゆったりとしていて、乗り物は大きな空を浮かぶように進んでゆきます。はるかな海を遠くまで見つめているうちに、中空の駅に着きました。

大きなホテルの大きな会場で

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「First Love」を耳にすると

「First Love」を耳にすると

コタキナバルというところへ行ったことがあります。わたしが勤めていた会社はグローバルな会社で、定期的に国をこえての会議があったのです。その時は、アジア地区の社員がそこに集まって会議をしたのでした。マレーシアのリゾート地らしく、美しい海岸に沿った建物からは、どこまでもはるかに海が見えていました。

しかし、外の陽射しがどんなにさわやかでも、わたしたちは一日中部屋

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20年後の社内旅行

「20年後の社内旅行」

早くに亡くなった先妻は、ある時、どうしても両親を連れて海外旅行に行きたいと言い出しました。前にも書きましたが、先妻は体が弱く、人と旅行に行くということがなかなかできませんでした。それでも、両親も歳とってきたし、行ける時に行っておきたいというので、私が会社を何日か休める日に、旅行に行きました。

ハワイにしようかとも思ったのですが、先妻の体力を考えて、より近い台湾に行くこ

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「詩のノート」

詩のノート

大田区の、京浜工業地帯、羽田から六郷川を少し上ったところに、私は住んでいました。ベークライト工場や、あらゆるものの部品工場のあいだに、貧しい民家やアパートがひしめき合っていました。下水工事も、近隣よりも後回しにされていた地域で、私とその友人は、詰襟の学生服を着て、地元の中学校へ通っていました。

50人一クラスで8組、合計400人いる学年の、ほとんどの生徒は勉強がそれほどできず、

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