西日
「西日」
これもずいぶん昔のことです。わたしがまだ若かった頃のことです。
ある夏の一日だったと思います。わたしと妻が足立区の姉のアパートを訪ねたことがありました。姉に旅行カバンを借りに行ったのだと記憶しています。生活臭のただよう畳の部屋に、姉と向かい合わせて、わたしと妻が座っていました。
隣の部屋では姉の息子が二人、友達を連れて来て、にぎやかに遊んでいました。その声がかなりやかましく、そのせいで姉の小さな声が聞きとりづらく、わたしは少し不快な思いを抱いていました。しかし姉はいっこうに気にならない様子で、静かに笑っていました。
姉の顔が急に老けたと、そのときに思いました。それはかなり強烈な印象でした。しかし、今考えるとそのとき姉はまだ30代半ばのはずで、老け始める年齢ではなかったはずです。日々の疲れによるものか、後の病の前兆が顔に表れていたのかもしれません。
用事が終わって、バス停まで送ってくれた姉と別れて、妻と二人きりになりました。それまであまり話をしなかった妻が、「お義姉さんと話をしていると、すごく落ち着くの」とつぶやいたのを覚えています。すでにそのころ妻は、自分の病に苦しんでいたのです。
それからしばらくしてのことでした。会社から帰った玄関先で、妻から「お義姉さんが倒れたって」という震える声を聞いたのでした。
姉はその日の夕方、洗濯物をたたんでいる時に、ひどく頭が痛いと言い始め、そのままその場に倒れ、病院に運ばれ、幾度も頭部の手術をし、それから何年も意識がもどらずに、亡くなりました。
見舞いに行くと、いつも枕元のテープレコーダーからは、二人の男の子の声が流れていました。「お母さん、起きて、起きて」。姉はその声を何年も聞き続けました。けれど最後まで返事をすることはありませんでした。
思えばあの日が、意識をもった姉と会った最後の日でした。夏の暑さに窓が開けっ放しになっていました。その窓から差し込む西日が、わたしの膝までとどいていました。
それから、「お義姉さんと話をしていると、すごく落ち着くの」と小さな声で言っていた妻は、姉のお葬式のときには、すでにこの世にはいませんでした。
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