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通信教育にて仏教学の修士課程を修了し、 在野の身にて、研鑽の日々を送っております。 (…

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通信教育にて仏教学の修士課程を修了し、 在野の身にて、研鑽の日々を送っております。 (なかなか居眠りばかりで、進んでおりませんが・・・。)

最近の記事

『華厳経』睡魔・雑念 格闘中20

「菩薩十無尽蔵品」 この「菩薩十無尽蔵品」も、前の品に引き続き、功徳林菩薩の説法が続いており、菩薩の十の蔵〔貯えるべきものとでも言うべきであろうか〕について述べられているのである。 功徳林菩薩が説く十蔵をまとめてみると、以下のようになろう。 1)信蔵 ・・・一切の法が空、無相、無願など、無尽の信を身につける 2)戒蔵 ・・・浄戒など様々な戒を持つ 3)慚蔵 ・・・無慚の行いを離れる 4)愧蔵 ・・・貪欲等の心を自ら愧じる 5)聞蔵 ・・・十二縁起等、様々な法を学ぶ 6)

    • 『華厳経』睡魔・雑念 格闘中19

      「功徳華聚菩薩十行品」 前の「夜摩天宮菩薩説偈品」に登場された、功徳林菩薩によって、この品は、菩薩が行うべき十の行について説かれている。 その十の行をまとめてみると、以下のようになろう。 1)歓喜(かんぎ)行    ・・・悉く一切の所有を捨離し、等心に一切の                   衆生に恵み施す 2)饒益(にょうやく)行  ・・・浄戒を持(たも)ちて一切の纏(てん)                  煩悩の熾火(しか)と、憂非苦悩とを           

      • 『華厳経』睡魔・雑念 格闘中18

        「仏昇夜摩天宮自在品」「夜摩天宮菩薩説偈品」― 如心偈 ― 品の名前にある通り、これまでの帝釈天の宮殿から、さらに場所が上昇し、場面は、夜摩天の宝荘厳殿へと移っていく。 「仏昇夜摩天宮自在品」では、十の如来の名が示され、その如来がいらっし ゃる宮殿が吉祥であることが、偈頌される。 続く、「夜摩天宮菩薩説偈品」では、今度は十の菩薩がそれぞれの名前に相応しいそれぞれの立場の偈を(功徳林が功徳に関しての偈を誦するといったように)頌していくのである。 そのなかで、”如心偈”や

        • 『華厳経』睡魔・雑念 格闘中17

          「明法品」 ― 普賢菩薩の所願 ― 『華厳経』を1巡目に読んだ際に、この品に於いて、唐突に「普賢菩薩の所願を具足せんことを願い」と法慧菩薩は精進慧菩薩に告げている場面があるのだが、この所願とは一体何であろうかと、気にはなったものの、そのまま読了してしまい、それが何であったのか、まったく分からずじまいで終わってしまった。 2巡目の今回は、少し本経(六十華厳)を離れ、別な資料にて確認したい。 1巡目に読んだ際には、普賢菩薩の願と思わるものを確認することは出来なかった。(居眠

        『華厳経』睡魔・雑念 格闘中20

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中16

          「明法品」 ― 十波羅蜜について ― 先の「初発心功菩薩徳品」の帝釈天とのやり取りに代わり、「明法品」では精進慧菩薩の問いに、法慧菩薩が、様々な菩薩の修習=修行について、答える形で構成されている。 法慧菩薩の偈に、その大事な部分がまとまっているので、抜粋したい。 上記のように、不放逸・不退転の態度で、菩提心を持ち続けることが強調されている。さらにこの「明法品」では、十波羅蜜について、細かく述べられている。 波羅蜜については「菩薩明難品」に於いて、文殊師利と智首菩薩との

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中16

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中15

          「初発心菩薩功徳品」 「梵行品」に変わって、また唐突に今度は、帝釈天からの問いに、法慧菩薩が答える形で、この「初発心菩薩功徳品」は始まる。 この品の最後の偈に於いて、法慧菩薩が述べるように、ここでの”発心”はすなわち、”発菩提心”の意味である。 ”菩提心”を発(おこ)すことによって成るところの、様々な功徳について、この品で法慧菩薩は滔々と述べるのであるが、では、”発菩提心”そのものはどのようなことを示しているのであろうか。 ”発菩提心”の内容について、鈴木大拙先生は以

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中15

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中14

          「梵行品」 この品には、偈が無く、かなり短いのだが、「十住品」において示された境地に於いて、どのように行を修習していけば良いのか、唐突に現れる正念天子の問いに答える形で、「十住品」同様に、法慧菩薩の口からその行について語られる。 では、ここでの”梵行”とはなんであろうか、”梵”は、ウパニシャッドでは、ブラフマン=最高・根本のことであろうが、この品より先に述べられた”浄行”との違いはなんであろうか。 「浄行品」では、智首菩薩が、文殊師利の問いに答える形で、身口意の業に於い

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中14

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中13

          「菩薩十住品」 1巡目に読んだ際には、この”住”の文字は全く気にせずに、読み進めていたが、2巡目の今にして”住”が気になってしまった。 手元の漢和辞典(角川 新字源)で"住"の意味としては、「とどまる」「じっと立ち止まる」とある。 しかし、1巡目をすでに読み終えている感触からすると、”とどまる”というのは少し、似つかわしくない。『華厳経』での菩薩のイメージは、常に発展的に進み続けているイメージだからである。 これについては、木村清孝先生の『十住経』での解題部分がヒント

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中13

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中12

          「仏昇須弥頂品」、「菩薩雲集妙勝殿上説偈品」 この2つの品から、場面が展開し、さらに場所が上昇していく。 「仏昇須弥頂品」、「菩薩雲集妙殿上説偈品」では、須弥山の頂きに在る 妙勝殿に於いて、帝釈天、十菩薩による偈が中心となっている。 「仏昇須弥頂品」では、過去七仏と、三の如来と、併せて十の仏に於ける 功徳について讃嘆した偈となっている。 ここで、七仏として思い出されるのは、”七仏通戒の偈”として知られる次のようなものであろう。 道元禅師は、『正法眼蔵』「諸悪莫作」の巻

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中12

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中11

          「賢首菩薩品」 この「賢首菩薩品」は、二つ前の、「菩薩明難品」にて9番目に登場する”賢首菩薩”と、文殊師利との問答の場面となっている。 漢訳の原本の都合だけの理由だったのか、あるいは、漢訳する前のサンスクリットの原本がそうなっていたのか、残念ながら、現段階で調べきれていないが、この品は、漢訳本では巻が分かれており、問答の意味内容から、わざわざ前半部と、後半部に分けたようにも思える。 前半部においては、「浄行品」での三帰依(仏・法・僧)を受け、以下のように、”信”をテーマ

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中11

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中10

          「浄行品」 この「浄行品」は、仏教徒であることの誓いの言葉ともいえる、三帰依文(仏・法・僧の三宝に帰依する)が記されている点で有名なのだが、三帰依に関しては、原始の経典群のなかの「発句経」(第190)にすでに現れている。 もちろん、宗教的な意義からすると、帰依(信じる気持ち)は重要かつ、根本的な主題ではあるのだが、私にとっては、この「浄行品」は、”在家”というキーワードが表れている点に於いて、より重要に思えたのである。 「浄行品」は、その前の「菩薩明難品」の8番目に登場

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中10

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中9

          「菩薩明難品」 ひとつ前の、「如来光明覚品」にて、仏の元に来詣に訪れた十方の国々の菩薩(〇首菩薩)らと、文殊師利とのやり取りで、終始しているのが、この「菩薩明難品」である。 菩薩の名前が、〇首菩薩と”首”の漢訳が共通しているのは、音が一緒だったのだろうか、或は意味が一緒だったのだろうか。漢訳の元の表記(サンスクリット)を確認することが出来ず、残念ながら2巡目にしても、確たることが分からないままとなってしまった。 この品の構成としては、9名の菩薩に対して、文殊師利がそれぞ

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中9

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中8

          「如来光明覚品」 正直、1巡目は、読み飛ばしてしまったのか、この品が”両足の相輪より放たれた、光明に照らされている場面”であることを理解していなかった。 木村清孝先生は、『華厳経入門』の中で、李通玄居士と、明恵上人との名前を挙げ、この場面での光明について次のように述べている。 この明恵上人の実践について、玉城康四郎先生は、次のような感想を述べられている。 ここで、話題に挙がっている”仏光観”とは、なんであろうか。それについて、前川健一先生は次のようにまとめている。

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中8

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中7

          「如来名号品」・「四諦品」 この2つの品には、偈が頌されていない。 そのために、訳者でいらっしゃる衞藤即應先生による、「通じて偈頌を誦し」という貴重なご意見を踏まえ、2巡目としては、偈が無いこの2つの品は駆け足で進めようと思ったのだが、「四諦品」を丁度読み終えた後で、たまた見た映画の台詞がどうもこの品に影響されたのか、印象として残った。 「四諦品」には、苦諦・集諦・滅諦についての名(呼ばれ方)が様々である点が以下のように記されている。 苦諦・集諦・滅諦は、名前は違えど

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中7

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中6

          「盧遮那品」 この品に関わった祖師らは、海沿いでの場所に暮されていたのであろうか。 あるいは、海が無い砂漠のような場所で、生まれてからこのかた見たことが無い"海"への憧れを以て、そのイメージをこの経に展開したのであろうか。 なぜか、この品に入ったとたん、海の文字が頻出する。(とは言っても、直接的な海=Seaというよりも、”世界”を意味しているようだ。) それ以外にも、「盧舎那品」では、具体的な世界のイメージというのが蓮の花のモチーフを用いて説明されているようだ。泥土から

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中6

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中5

          「世間浄眼品」 1巡目は、眠気に負けて、まったく気が付かなかったが、衞藤即應先生は、注釈に、以下のように書かれていらっしゃる。  「重頌〔中略〕前に散文にて説きたるを、さらに偈は以て述べたる者をい   う。本経中の偈は多く此の重頌なり。」    〔旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた。〕   『国訳大蔵経』,経部第五巻,第一書房,2005,pp.98-99 なるほど、散文と、偈で、同様のことを述べているので、「余暇を有せざる者は、通じて偈頌を誦し」とのご意見になっておられる

          『華厳経』睡魔・雑念 格闘中5